たのは、古くは「奴」の類と同じ音であったのが、後に「の」となって「能」の類と同じ音になったと考えたからであろうと思われますが、右に述べたように、古くは「怒」の類は「奴」とも「能」とも区別せられていたので、これを「ぬ」と読んでも「の」と読んでも、その区別を表わすことは出来ません。しかし、これは他の仮名にもあることで、「こ」でも、古くは「古」の類と「許」の類とにわかれているのを、共に「こ」と読んでいるのですから、止むを得ないことですが、しかし、その場合には、「古」の類も「許」の類もこれを「こ」とよめば後世の語と一致するから、これを共に「こ」と読むのであります。「怒」の類は、後世の語ではすべて「の」になっていて「ぬ」とはなっていませんから、これを「の」とよむ方が正当と考えられます。さすれば、「能」の類もまた後世の「の」に一致しますから、「の」に当るものに「怒」の類と「能」の類と二つの類があると見るのが至当であろうと思われます。そうだとすれば、「怒」類で書いてある諸語も、「の」「つの」「しのぶ」「しの」「たのし」と読んでよいことになります。もっともこれらの語については、まだ他に多少問題になる点もあり、また、古典語として「ぬ」「つぬ」「しぬぶ」など読むこともかなり久しい慣例となっていますから、現代の読み方としては必ずしも改めなければならないこともないかも知れませんが、理論上は右のようになると思われるのであります。
 なお、おのおの二類に分れている十三の仮名を五十音図に宛ててみますと、龍麿の説によると、
[#ここから二字下げて表]
ア段イ段ウ段エ段オ段[#表ここまで]
かようになって、段によって多い少ないの違いがあり、オ段に属するものが最も多く、エ段、イ段これにつぎ、ウ段はただ一つであり、ア段は全くありません。すなわちウ段には「ヌ」のほかには一つもありません。もし私のいうように「ヌ」が二類にわかれず、「ノ」が二類にわかれているとすれば、ア段とウ段とには全くなくなり、オ段はふえることになりますが、オ段は特に多いのであって、『古事記』にのみ二類に分れているのも「モ」であって、オ段に属します。かような点から見ても、「ヌ」における別とするよりも「ノ」における別とした方がよいように思われるのであります。龍麿の説はかように訂正すべきものと考えます。

     三

 前回は石塚龍麿《いしづかたつまろ》の研究によって、ずっと古い時代に今我々が同じ仮名であると思っているものの中に二つに分れていたものがある。すなわち十三の仮名に当る万葉仮名がおのおの二類に分れているということを申しました。もっともこの龍麿の研究には、今見ると多少間違いもあって、清音の仮名が二類にわかれているのに、これに対する濁音の仮名には二つに分れていないものがあるように認めたが、それは間違いで、十三の仮名の中において、清濁相対するものは、濁音の仮名においても、すべておのおの二類に分れている。また『古事記』においては龍麿は「チ」および「モ」の仮名がおのおの二つに分れているという考えであるが、それは間違いで、「モ」だけが二つに分れる。それで、結局ずっと古い時代において八十七類の区別があり、それだけが互いに違ったものとして使い分けられておったので、更に『古事記』においてはもう一つふえて八十八だけが違った類として考えられていたということを申したのであります。
 さてこの龍麿の研究を見ますと、その中には今申した事に対する例外と認められるものが大分出ているのでありまして「何々とあるは正しからず」という風に、右のようなきまりに合わない例があげてあります。それはつまり例外なんで、二類に分れて混ずることなしと言いながらしかも例外、すなわち分れていない例がある。それもごく僅《わず》かならばまだよいが、相当の数に上っているのであります。そうすると、右の結論は正しくないのではないか、二類の別があるというのはただそう見えるだけで、厳格に言えばそんな区別がないのではないかという風にも考えられます。しかし今から見ますと、それは龍麿が見ました色々の古典の本文が間違っていて正しくないために、実際は乱れていないものが乱れているように見えたものも相当にあるのであります。無論昔のことでありますから、『万葉集』にしても寛永年間に刊行された版本を見ただけであります。これは通行本と言われているもので、江戸時代の学者は大抵そればかり見ておったのでありますが、それは相当誤字のある本で、近来ずっと古い『万葉集』の写本が大分出て来ましたが、それと比べて見ると処々字が違っている所があります。その文字を訂正すれば例外とならないものを、それが出来なかったために正しくない例が出来たものもあります。あるいはまた文法の考えが発達していなかったために、
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