大体の性質が解ったものですから、言語学会とか、国学院大学の国語学会で紹介したこともありますが、『帝国文学』に始めて「国語仮名遣研究史上の一発見」という題で大正六年の十一月号に書いたのであります。それにはこの『奥山路』の研究が非常に珍しいものであり。非常に価値のあるものであること、仮名遣の研究の歴史から見てどんな位置を占め、どんな意味をもつものであるかということについて述べました。しかしこれは大正六年のことで、当時国語国文学の研究ということは非常に衰えておった時分でありまして、別に注目する人もなかったと思います。その後、大正の末から今日までの間に国文学が非常に盛んになりまして、国語学の研究も追々進み、殊にかような古代の仮名遣のことは『万葉集』など古典の訓読や解釈というようなことにも非常に関係があることからして、次第に注意を惹《ひ》くことになり、若い人たちも段々研究するようになりまして、今日においてはこういう方面に関する論文が大分色々出ております。
次に、私が心附きました、龍麿の研究の間違っている点だけを申しておきたいと思います。それだけ訂正すれば、龍麿の研究は今日においても大体役に立つことと思います。龍麿の研究によると、奈良朝におけるあらゆる万葉仮名は八十五類にわかれることになるのでありますが、これにはすこし誤りがあります。先ず、龍麿が濁音の仮名で二類に分れているのは五つであるとしたのは間違いであって、これは七つにおいてそうなっているのであります。前に述べた十三の仮名の中で濁音があるのは「キ、ケ、コ、ソ、ト、ヒ、ヘ」と七つあります。これ以外に濁音になるものはありませぬが、この七つとも、濁音のものも清音と同様におのおの二類の区別があります。龍麿は「ケ」と「ソ」だけの濁音は共に二類を認めず、すべて一類にしましたが、やはりこれはそれぞれ二類に分れているものと考えます。そうすると「ケ」と「ソ」との濁音が二つふえまして総数が八十七類となります。これが奈良朝時代において互いに違った類の仮名として区別せられておったものであると私は考えているのであります。それから『古事記』では龍麿は八十八類を認めたようでありますが、龍麿は『古事記』には「チ」と「モ」とが二類に分れているとしました。その中「チ」は間違いで、「チ」は『古事記』でも一類です。また「ヒ」を三類に分れるとしたようでありますが、これは間違いで、「ヒ」もやはり二類であります。すなわち、『古事記』が他のものと異なる点は「モ」が二類に分れるだけでありますから、総数が一つふえて八十八類になります。これが恐らく奈良朝時代、あるいはもう少し古い時代に、互いに違ったものとして使い分けてある万葉仮名の類別の総数であろうと考えるのであります。
それから、龍麿の研究では「ヌ」が二類に分れることになっていますが、私はそうでなく「ノ」が二類になるのだと思います。「ノ」が二類に分れ、「ヌ」はただ一つだけであります。龍麿は、「ヌ」が二つで、「ノ」はただ一つであると考えたのでありますが、「ヌ」は一類であって「ノ」が二類である。結局は「ヌ」と「ノ」と合せて三類で、総数には変りない。一方の減った代りに一方でふえたのであります。『古事記』に「怒」で書いてある「野」「角」「偲」「篠」「楽」などの語は今でも「ヌ」の音と見て「ヌ」「ツヌ」「シヌブ」「シヌ」「タヌシ」と読んでおりますが、後世の言語ではこれらはみな「ノ」になっております。完了の助動詞の「ぬ」、「沼《ヌマ》」「貫《ヌク》」「主《ヌシ》」「衣《キヌ》」などの「ヌ」は「奴」の類の文字で書いて、前の「怒」の類の文字では書かず、別の類に属する。また助詞の「の」「登《ノボル》」「後《ノチ》」「殿《トノ》」などの「ノ」は「能」の類の文字を用いて、勿論《もちろん》以上の二つと別である。つまり、「怒」の類、「奴」の類、「能」の類、と三類にわかれているのでありますが、龍麿は「怒」と「奴」とを共に「ぬ」に当るものとし「能」だけを「の」に当るものとして「ぬ」に二類あるものと見たのでありますが、前申したごとく「怒」の類は平安朝以後の言語ではすべて「の」になっているのでありますから、これを「能」と共に「の」にあたるものとし、「奴」は平安朝以後も「ぬ」に当りますから、「の」が二類にわかれ「ぬ」は一類であるとする方が穏やかであろうと思います。
右の「怒」の類の仮名で書かれている「野」「角」「偲」「篠」「楽」などの諸語は、『万葉集』の訓でも古くは「の」「つの」「しのぶ」「しの」「たのし」と読んでいたのですが、江戸時代の国学者が「ぬ」「つぬ」「しぬぶ」「しぬ」「たぬし」と改めたものです。ところが「奴」の類と「能」の類とは、昔から今まで「ぬ」と「の」とに読んでいます。「怒」の類を「ぬ」と読むことにし
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