を考えておったような形迹もありますけれども、実ははっきりしたことは判りませぬ。しかし我々からみれば発音の区別に基づいたものであると考えられるのでありますが、それは後に述べることにして、まず仮名の使い分けとして考えておいただけでもよいと思います。そういうことでも古典を読む上には必要な決してゆるかせに出来ないことであります。
もう少し龍麿の研究について述べておきたいと思います。『古言清濁考』も『仮名遣奥山路』も寛政年間に出来たもので、今から百四、五十年前のものでありますが、その後この研究がどうなったかという問題であります。一方の『古言清濁考』はその後の学界に大分反対が出ているのであります。荒木田久老《あらきだひさおい》の『信濃漫録《しなのまんろく》』の中にも龍麿の説を信用しないようなことを書いております。村田春海《むらたはるみ》なども疑わしいというようなことを言っているのであります。実際清濁の区別については、かなりむずかしい問題もあるのでありますが、私どもは大体において書き分けられていると認めてよいと思います。しかし、これは龍麿以後、徹底的に調べたものはないのでありますから、なお今後の研究が必要であります。
それから『仮名遣奥山路』の説、殊に十三の仮名における二類の区別につきましては、その後殆ど研究したものもなく、実際『奥山路』の研究がどんな性質のものであるかということさえ判った人も無かったようであります。ただ草鹿砥宣隆《くさかどのぶたか》という人が『古言別音抄《こげんべつおんしょう》』というものを書きました。それは『奥山路』を基礎にして書いたもので、それを読めば龍麿の研究がどんなものであるかということがわかるのであります。しかし、これは世間に写本が二、三冊位しかなく、近年京都の篤志家が謄写版で版にしまして幾分か世に広まった位であります。それ以外にこれに関する研究などは全くなかったのであります。そうして明治以後になって出来た国語学書の解説や国語学史にも『奥山路』の書名は載っていますが、こういう珍しい注目すべき研究であるということは一向判っていなかったのであります。それは一つはこの書物の書き方が甚だ粗略であって、かような、誰にも思い掛けない全く新奇な事実を伝えるのに不十分であり、また一方、余り独断的に見えるような所もあって、その本当の性質を理解することが困難だったからでありましょう。実は私も大学の国語研究室にこの書物の写本がありまして(これは震災の時に焼けましたが)ずっと前に見たこともあったのでありますけれども、その時分には判らなかったのでありますが、明治四十二年の頃、ちょうど私が国語調査委員会におりまして『万葉集』の文法に関することを調査して色々例を集めておった内に、その第十四巻の東歌《あずまうた》の中に「我」とあるべき所に「家」と使ってあるので少し変だと思って、この巻の中のすべての「家」の字を集めて考えてみたのでありますが、それは当面の問題の解決には用立たなかったのでありますが、そうして見て行く中に、助動詞の「けり」の「け」とか形容詞の語尾の「け」とかには、いつもこの「家」の字が出て来るのを見て、引つづき、あらゆる「け」という音について『万葉集』をずっと調べてみましたところが、我々が普通「け」と読んでいる万葉仮名に、語によっていずれの字を使うかという使い分けがあることを見付けたのであります。それから、まだその他に「キ」とか「コ」とかいう音にもこういうことがあるという見当を附けて調べておったのでありますが、その内に大学の国語研究室に行くことがありまして、その時に偶然『古言別音抄』があったものでありますから、それをソょっと見たところが、ちょうど私のやっていることと同じようなことが書いてあり、そうしてそれは『奥山路』に拠《よ》ったものであるということが書いてありましたので、改めて『奥山路』を読みまして、そうしてよく見ると、成程そうであって、右に述べたような研究であることが判ったのであります。しかし私が『奥山路』によってはじめてかような事実を知ったのでなく、独立して自身でこの事実を見出した、尠《すくな》くも或る部分だけは自分で見出したという関係からして、この書物が大変価値のあるものであることや、どんな性質のものであるかということも解りました。同時に、どういう点に欠点があるかということも判った訳であります。そこでこれはもう一度やり直さなければならぬと考え、そして段々調査も進めたのでありますが、その当時他の仕事を主としておったものですから、この方面を専門に研究しようという積りはなかったものでありますから、あまり急いで研究を進めず、今でも大部分の調査は終っておりますが、研究はまだ完結していないのであります。しかし龍麿の『奥山路』については
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