結局焦躁のために混乱してしまふ。
「こんな洞察のない、こんな上滑りのした空想ぢや駄目だ」とさう呟《つぶや》きながら、彼がそれをまた手箪笥の引き出しへ投げ込んで鍵を下ろした時、彼は裏口が明いて彼女の出てゆく気配を知つた。彼は巻煙草の吸口をぎゆつと噛み占めた。
 あゝ今、彼の眼の先へ息の詰まる程の鮮さを持つた空想の世界が、何か魔術にでもかゝつたかのやうにすつと現れて来たら、彼はどんなに幸福だつたらう! 然《しか》し、彼の前には、実のところ空漠として煙が巻上るのみだつた。
 道助は溜息をつきながら立ち上つた。そして何か遠くにあるものを求めるやうな気持で静に裏口を出た。
 三四間ゆくと彼は急に忙々《せか/\》と歩き出した。「何処へいつたのだ、彼女は。」さう呟《つぶや》きながら。
「好いお天気でございます。」と声をかけつゝ牛乳屋の主婦《おかみ》さんが頭を下げた。道助はちよつと会釈《ゑしやく》をしてゆき過ぎた、「あの人の鼻はどうしてあんなに大きいのだ!」……
 いくら行つても妻の姿は見えなかつた、そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちを苛《いら》だたしめた。彼はすぐに引き返した。

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