て遠野のことを考へると、道助は自分が何かしら惨《みじ》めなものに思はれた。彼は或る時の妻の瞳を思ひ出し、また彼女の髪の震へを感じた。然し彼の心はもうそれらに対してまるで路傍の人のやうな冷静さに裏づけられてゐた。
 彼はぢつとしてゐられない気持ちになつた。である日、手箪笥《てだんす》の底から彼が結婚前に書きかけてゐた自叙伝的な創作の原稿をとり出した。
「おい、これから少し仕事をやらなくちやならないんだ。」さう妻に云つて彼はその原稿を一枚々々読み返した。
「なあに、小説?」と云ひつゝ彼女が馴々《なれ/\》しくそれを覗《のぞ》き込んだ。
「見ちやいけない。」と彼は叫んだ。
「恐い顔。」と云ひながら彼女が眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「ちよつとあつちへ行つてゐてくれ。」と彼は押しつけるやうに云つた。彼女は少し蒼い顔をして隣室へ立つていつた。彼はそれを追ふやうにして間の唐紙に手をかけた。彼女がぢつと反抗的な視線を彼に投げる。彼は強《し》ひて笑顔を作りながらぴたりと唐紙を閉めた。そしても一度原稿紙を取り上げた。
 彼の頭は暫くその上と隣室へと等分に働きかける、そして
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