炉台の上の蓄音器の傍に赤く塗つた鳥籠が置かれ、その中で目白が盛んに囀《さへづ》つてゐる。彼はちよつと家の小鳥と妻の顔を思ひ出した。然しそれもすぐ散漫な気持の中に溶け込んでしまつた。
「今日は出来るだけ幸福でなくちや。」とそんなことを考へながら、彼は熱い珈琲を啜《すゝ》つた。それから新聞をとり上げて一とわたり経済欄や政治欄に眼を通したが別に愉快なことも起つてゐないので今度は表の方へ眼をやつた。入口の扉が両方に明け放たれ、その間に葭簀《よしず》が吊下り、その向うに明るい往来が見えるのである。
 ふとそこを青いパラソルをさした太り肉《じし》の丈の高い女が行き過ぎる。傘の青みが顔に落ちてよくはわからないが、色の白い眼の大きな女だと道助は思つた。と同じ瞬間に、その女のショウルと帯の色合ひと横顔の輪郭とがハツキリと彼の記憶に再燃した。それはモデルのとみ子に違ひなかつたのだ。彼は忙《いそ》いで払を済ませて外へ出た。そして六七間先にゆく彼女の後を追つた。
 このまゝ後をつけて行つて見ようかそれとも追ひついて声をかけようか、そんなことを道助が思ひ迷つてゐる間に彼女は横町へ外《そ》れてしまつた。彼が小走り
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