れが或る日その医者を訪ねて来て、自分は音楽研究のために二三年|独逸《ドイツ》にゆきたいと思ふが少し調子が変だから精神鑑定をやつてくれと云つた。で医者が容態を尋《たづ》ねると、自分には今ものの形と音との区別がハツキリとつかないと云ふのである。例へば一つの茶碗を見ると、すぐに彼の耳に瀬戸物の打ち合ふ音が聞えて来て、茶碗そのものの形は、何か斯う空に懸つた朦朧《もうろう》とした曲線とでも云ふやうに音の裏に浮き上つてしまふと云ふのであつた……
 道助がそんなことを考へ続けてゐると彼女が強く手を引張つた。
「その顔色はどうしたんだ。」と彼が苛々《いら/\》と尋ねた。
「あなたの顔も蒼白いのよ。」と彼女が云つた。
 雨が落ち初める……彼等は立ち止つた。
「おい、」とその時晴やかな声が響いた。道助は急に明るい光線が頭の上に落ちて来たやうに思つた。そこに遠野が画布を抱へて、大股に彼等の方へ近づいて来るのだつた。

     六

 食卓の上に青いシェードをかけた電気のスタンドが燈《とも》され、その明るい光線の中に、遠野と道助とが少し興奮して坐り、シェードの蔭には彼女が澄んだ瞳をぢつと彼等の方へ見開いてゐ
前へ 次へ
全31ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
十一谷 義三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング