あしおと》がちつとも聞えないのに気がついた。で彼は愕然《がくぜん》として背後《うしろ》へ振り向いた。そこに彼女がほんの一尺計り離れて彼に憑《つ》いてるやうに歩いてゐる。
「あゝ俺は少し頭を使ひ過ぎる。」さう道助は思つた、で彼は高声にお饒舌《しやべり》を初めた。
「おい俺は豚を二三匹飼はうと思ふよ。」と彼は妻に云つた。
「豚、この街の真中で。」と彼女が闇《くら》い顔をして反問した。
「あゝ、よく光る太陽の下で、豚と一緒に駈け廻り、ふざけ合ひ、寝つ転がり、臀《しり》を叩き、ああおまへ豚の皮膚の色を知つてゐるかい。」と道助は調子に乗つて云つた。
「まあ厭!」
ふいと道助は、真白い太つた女の両腕が、彼の眼の前に大きく拡げられてゐる幻を見た。「とみ子! たしかさう云つたな、あのモデル。」と彼は思はず呟《つぶや》いた。
「えゝ」と云ひながら、彼女が探るやうに顔を寄せた。その引き締《しま》つた頬を見ると、道助は急いで眼を背向《そむ》けて少し速足に歩きだした。
彼は歩きながら今度は、いつか懇意な医者から聞いたある若い男の話を思ひ浮べた。その男は小さい時から音楽に対して殆ど狂的な興味を持つてゐた。そ
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