神経をたてた。
あたりに舟は一艘もいなかった。弟は裸になった。
「どこまで出るの?」と彼女が訊《き》いた。それには答えないで、弟は力限り漕《こ》いだ。彼の肩から二の腕へかけて真白な肉瘤が盛り上りその上に汗がいちめんに滲《にじ》んでいた。舟は彼のからだとともに劇《はげ》しく揺れ、空には星が輝き、そうして彼らは涯《はて》しのない淋しさの中へ出ていった。
彼女は片手を兄の膝《ひざ》に載《の》せ、片手でしっかりと舟縁《ふなべ》りを掴んでいた。風に乱された彼女の髪が、兄の没表情な頬の上に散りかかってゆく。
「いやだ、いやだ。」そう言って彼女は身を震わせた。
「寂しいの。ばかだなあ。」そして兄は微笑んだ。
弟は艪を止めて舟を流した。彼の大きな胸は彼らの方に向いて緩《ゆる》く波打っていた。
「疲れたろう。」と兄が言った。
「なあに。いけるところまでいくとおもしろいんだ。」
「そうだね。」
もうすっかり闇《くら》くなっていた。近くの海面からイナの跳《は》ねる音がひびいてきた。そして水の中を白坊主のような水母《くらげ》がいくつも浮いて通った。彼女はあたりを見廻した。
「もし舟が覆《かえ》ったらど
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