身《いれずみ》か何かのように、兄の頬にへばりついてるではないか。弟は二三歩あとへよって、無言のまま蒼くなって兄の顔を指した。
「あら、あら、あら」そう叫びながら、彼女は樹の幹に震えついた。異常な神経家の蜘蛛はただならぬ雰囲気を感じたのだろう。兄の頬から細い首筋の方へ動き初めた。兄が何気なくそこへ手をやると、蜘蛛は今度はその手の甲の上に蟠《わだか》まって、腹を動かした。兄は忙《あわ》ててもう一方の手でそれを払った。そうしてその瞬間に彼のからだは中心を失って地上に落ちた。
彼女と弟とは固くなって眸《ひとみ》を見張った。兄は俯伏《うつぶ》せに横わったまま片方の眼を押えてしくしく泣いていた。その指の叉《また》から濃い血が滲《にじ》みでてくる。そして、彼の頭の上の空間には、脚を縮めた醜い蜘蛛のからだが、上の樹の枝の揺れにつれてもぞもぞと動いているのだ。
きゅうに彼女が、樹の上で破《わ》れるように泣きだした。弟もぼろぼろと涙を流した。そして主屋《おもや》の方へ一散に駈けながら、遠くの彼女と声を合せて泣いていった。
兄の左の眼はその時以来ずっと黒眼鏡で蔽われている。
二
蜻蛉
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