た。彼は舟の下を走る潮騒《しおさい》に耳をすました。音は自分の胸から湧きでるほど自然に聞えた。彼は力の張りきった自分の腕と股を見た。幸福がすべて宿っているように思われた。熱い涙がさんさんと彼の眼から流れた。彼は艪を外《はず》して大声に泣きだした。
 兄と彼女が空虚な眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、14上−6]《みは》った。舟はやはり沖へ進んでいた――

     四

 ――われ爾《なんじ》が冷《ひやや》かにもあらず熱くもあらざることを爾のわざによりて知れりわれ爾が冷かなるかあるいは熱からんことを願う――弟はゆうべ床で読んだ聖書の句を繰り返えしながら寝着《ねまき》のままで裏へ出た。雑草が露の重味で頭を下げ霧に包まれた太陽の仄白《ほのじろ》い光りの下に胡麻《ごま》の花が開いていた。彼は空を仰ぎ朝の香を胸いっぱい吸った。庭の片隅の野井戸の側に兄が蹲《うずく》まっていた。弟の近寄る跫音《あしおと》を聞くと兄は振返えって微笑んだ。眼鏡を外《はず》した左の眼が白い貝の肉のように閉じている。
 先きを輪にした長い蛙釣りの草が二三本そばに落ちており、兄の手には細い解剖刀がキラキラと光っ
前へ 次へ
全16ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
十一谷 義三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング