も長く形の上には、此の方針を取っておった。
処で、出来上った結果はどうか、自分の訳文を取って見ると、いや実に読みづらい、佶倔※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《きっくつごうが》だ、ぎくしゃくして如何にとも出来栄えが悪い。従って世間の評判も悪い、偶々《たまたま》賞美して呉れた者もあったけれど、おしなべて非難の声が多かった。併し、私が苦心をした結果、出来損ったという心持を呑み込んで、此処が失敗していると指摘した者はなく、また、此処は何《ど》の位まで成功したと見て呉れた者もなかった。だから、誉められても標準に無交渉なので嬉しくもなければ、譏《そし》られても見当違いだから、何の啓発される所もなかった。いわば、自分で独り角力を取っていたので、実際毀誉褒貶以外に超然として、唯だ或る点に目を着けて苦労をしていたのである。というのは、文学に対する尊敬の念が強かったので、例えばツルゲーネフが其の作をする時の心持は、非常に神聖なものであるから、これを翻訳するにも同様に神聖でなければならぬ、就ては、一字一句と雖《いえども》、大切にせなければならぬとように信じたのである。
併し乍ら、元来文章の形
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング