は自ら其の人の詩想に依って異なるので、ツルゲーネフにはツルゲーネフの文体があり、トルストイにはトルストイの文体がある。其の他凡そ一家をなせる者には各独特の文体がある。この事は日本でも支那でも同じことで、文体は其の人の詩想と密着の関係を有し、文調は各自に異っている。従ってこれを翻訳するに方っても、或る一種の文体を以て何人にでも当て嵌める訳には行かぬ。ツルゲーネフはツルゲーネフ、ゴルキーはゴルキーと、各別にその詩想を会得して、厳しく云えば、行住座臥、心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す位でなければならぬ。是れ実に翻訳における根本的必要条件である。
 今、実例をツルゲーネフに取ってこれを云えば、彼の詩想は秋や冬の相ではない、春の相である、春も初春《しょしゅん》でもなければ中春でもない、晩春の相である、丁度|桜花《さくら》が爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]と咲き乱れて、稍々《やや》散《ち》り初《そ》めようという所だ、遠く霞んだ中空《なかぞら》に、美しくおぼろおぼろとした春の月が照っている晩を、両側に桜の植えられた細い長い路を辿るような趣がある。約言すれば、艶麗の中《うち》にど
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