。腹に拠る所がない、ただ苦痛を免《のが》れん為の人生問題研究であるのだ。だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書を猟《あさ》ったのも此時で、基督教《キリストきょう》を覘《のぞ》き、仏典を調べ、神学までも手を出したのも、また此時だ。
全く厭世と極って了えば寧《いっ》そ楽だろうが、其時は矛盾だったから苦しんだ。世の中が何となく面白くない。と云った所で、捨てる訳にはゆかん。何となく懐しい所もある。理論から云っても、人生は生活の価値あるものやら、無いものやら解らん。感情上から云っても同じく解らん……つまる所、こんな煮え切らぬ感情があるから、苦しい境涯に居たのは事実だ。が、これは「厭世」と名くべきものじゃ無かろうと思う。
其時の苦悶の一端を話そうか。――当時、最も博く読まれた基督教の一雑誌があった。この雑誌では例の基督教的に何でも断言して了う。たとえば、此世は神様が作ったのだとか、やれ何だとか、平気で「断言」して憚らない。その態度が私の癪《しゃく》に触る。……よくも考えないで生意気が云えたもんだ。儚《はかな》い自分、はかない制限《リミテッド》
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