A動《やや》もすれば身を政治界に投ぜんとする風ありと雖も、是れ以ての外の心得違なり、青年は須《すべか》らく客気を抑えて先ず大《おおい》に修養すべし、大《おおい》に修養して而《しか》して後《のち》大《おおい》に為す所あるべし、という議論が載っていた。私は嬉しかった。早速此|持重説《じちょうせつ》を我物にして了って、之を以て実行に逸《はや》る友人等を非難し、而《そう》して窃《ひそか》に自ら弁護する料にしていた。
斯ういう事情で此様《こん》な心持になっていたから、中学卒業後尚お進んで何か専門の学問を修めようという場合には、勢い政治学に傾かざるを得なかった。父が上京して何を遣《や》りたいのだと言った時にも、言下《ごんか》に政治学と答えた。飛んだ事だといって父が夫《それ》では如何《どう》しても承知して呉《くれ》なかったから、じゃ、法学と政治学とは従兄弟《いとこ》同士だと思って、法律をやりたいと言って見た。法律学は其頃流行の学問だったし、県の大書記官も法学士だったし、それに親戚に、私立だけれど法律学校出身で、現に私達の眼には立派な生活をしている人が二人あった。一人は何処だったか記憶《おぼえ》がないが、何でも何処かの地方で代言《だいげん》をして、芸者を女房にして贅沢な生活をしていて、今一人は内務省の属官《ぞっかん》でこそあれ、好《い》い処を勤めている証拠には、曾て帰省した時の服装を見ると、地方では奏任官には大丈夫踏める素晴しい服装《なり》で、何《なに》しても金の時計をぶら垂《さ》げていたと云う。それで父も法律なら好かろうと納得したので、私は遂に法学研究のため斯うして汽車で上京するのだ。
二十六
東京へ着いたのは其日の午後の三時頃だったが、便《たよ》って行くのは例の金時計をぶら垂《さ》げていたという、私の家《うち》とは遠縁の、変な苗字だが、小狐《おぎつね》三平という人の家《うち》だ。招魂社の裏手の知れ難《にく》い家《うち》で、車屋に散々こぼされて、辛《やッ》と尋ね当てて見ると、門構は門構だが、潜門《くぐりもん》で、国で想像していたような立派な冠木門《かぶきもん》ではなかった。が、標札を見れば此家《ここ》に違いないから、潜《くぐ》りを開けて中に入ると、直ぐもう其処が格子戸作りの上り口で、三度四度案内を乞うて漸《やっ》と出て来たのを見れば、顔や手足の腫起《むく》んだような若い女で、初は膝を突きそうだったが、私の風体を見て中止にして、立ちながら、何ですという。はてな、家《うち》を間違えたか知らと、一寸《ちょっと》狼狽したが、標札に確に小狐《おぎつね》三平とあったに違いないから、姓名を名告《なの》って今着いた事を言うと、若い女は怪訝《けげん》な顔をして、一寸《ちょっと》お待ちなさいと言って引込《ひっこ》んだぎり、中々出て来ない。車屋は早く仕て呉れという。私は気が気でない。が、前以て書面で、世話を頼む、引受けたと、話が着いてから出て来たのだし、今日上京する事も三日も前に知らせてあるのだから、今に伯母さんが――私の家《うち》では此家《ここ》の夫人を伯母さんと言いつけていた――伯母さんが出て来て好《い》いように仕て呉れると、其を頼みにしていると、久《しば》らくして伯母さんではなくて、今の女が又出て来て、お上ンなさいという。荷物が有りますと、口を尖《とん》がらかすと、荷物が有るならお出しなさい、というから、車屋に手伝って貰って、荷物を玄関へ運び込むと、其女が片端から受取って、ズンズン何処かへ持ってッて了った。
車屋に極《き》めた賃銭を払おうとしたら、骨を折ったから増《まし》を呉れという。余所の車は風を切って飛ぶように走る中を、のそのそと歩いて来たので、些《ちッ》とも骨なんぞ折っちゃいない。田舎者《いなかもん》だと思って馬鹿にするなと思ったから、厭だといった。すると、車屋は何だか訳の分らぬ事を隙間もなくベラベラと饒舌《しゃべ》り立って、段々大きな声になるから、私は其大きな声に驚いて、到頭言いなり次第の賃銭を払って、東京という処は厭な処だと思った。
車屋との悶着を黙って衝立《つッた》って視ていた女が、其が済むのを待兼《まちかね》たように、此方《こっち》へ来いというから、其跟《そのあと》に随《つ》いて玄関の次の薄暗い間《ま》へ入ると、正面の唐紙を女が此時ばかりは一寸《ちょっと》膝を突いてスッと開けて、黙って私の面《かお》を視る。私は如何《どう》して好《い》いのだか、分らなかったから、
「中へ入っても好《い》いんですか?」
と狼狽《まごまご》して案内の女に応援を乞うた時、唐紙の向うで、勿体ぶった女の声で、
「さあ、此方《こちら》へ。」
私は急に気が改まって、小腰を屈《こご》めて、遠慮勝に中へ入った。と、不意に箪笥や何や角《か》や沢山な奇麗な道具が燦然《ぱっ》と眼へ入って、一寸《ちょっと》目眩《まぼ》しいような気がする中でも、長火鉢の向うに、三十だか四十だか、其様《そん》な悠長な研究をしてる暇《ひま》はなかったが、何でも私の母よりもグッと若い女の人が、厚い座布団の上にチンと澄している姿を認めたから、狼狽して卒然《いきなり》其処へドサリと膝を突くと、真紅《まっか》になって、倒さになって、
「初めまして……」
二十七
伯母さん――といっては何だか調和《うつり》が悪い、奥様は一寸《ちょっと》会釈して、
「今お着きでしたか?」
「は」、と固くなる。
「何ですか、お国では阿父《おとう》さんも阿母《おかあ》さんもお変りは有りませんか?」
「は。」
と矢張《やっぱり》固くなりながら、訥弁《とつべん》でポツリポツリと両親の言伝《ことづて》を述べると、奥様は聴いているのか、いないのか、上調子《うわちょうし》ではあはあと受けながら、厭に赤ちゃけた出がらしの番茶を一杯|注《つ》いで呉れたぎりで、一向構って呉れない。気が附いて見ると、座布団も呉れてない。
何時迄《いつまで》経《た》っても主人《あるじ》が顔を見せぬので、
「伯父さんはお留守ですか?」
と不覚《つい》言って了った顔を、奥様はジロリと尻眼に掛けて、
「主人はまだ役所から退《ひ》けません。」
主人と厭に力を入れて言われて、じゃ、伯父さんじゃ不好《いけなか》ったのか知ら、と思うと、又私は真紅《まっか》になった。
ところへバタバタと椽側に足音がして、障子が端手《はした》なくガラリと開《あ》いたから、ヒョイと面《かお》を挙《あげ》ると、白い若い女の顔――とだけで、其以上の細かい処は分らなかったが、何しろ先刻《さっき》取次に出たのとは違う白い若い女の顔と衝着《ぶつか》った。是が噂に聞いた小狐《おぎつね》の独娘《ひとりむすめ》の雪江さんだなと思うと、私は我知らず又固くなって、狼狽《あわ》てて俯向《うつむ》いて了った。
「阿母《かあ》さん阿母さん」、と雪江さんは私が眼へ入らぬように挨拶もせず、華やかな若い艶《つや》のある美《い》い声で、「矢張《やっぱり》私の言った通《とおり》だわ。明日《あした》が楽《らく》だわ。」
「まあ、そうかい」、と吃驚《びっくり》した拍子に、今迄の奥様がヒョイと奥へ引込《ひっこ》んで、矢張《やっぱり》尋常《ただ》の阿母《かあ》さんになって了った。
「厭だあ私《あたし》……だから此前の日曜にしようと言たのに、阿母《かあ》さんが……」といいながら座敷へ入って来て、始めて私が眼へ入ったのだろう。ジロジロと私の風体《ふうてい》を視廻して、膝を突いて、母の顔を見ながら、「誰方《どなた》?」
「此方《このかた》が何さ、阿父様《おとうさま》からお話があった古屋さんの何さ。」
「そう。」
といって雪江さんは此方《こちら》を向いたから、此処らでお辞儀をするのだろうと思って、私は又倒さになって一礼すると、残念ながら又|真紅《まっか》になった。
雪江さんも一寸《ちょっと》お辞儀したが、直ぐと彼方《あちら》を向いて了って、
「私《あたし》厭よ。阿母《かあ》さんが彼様《あん》な事言って行《い》かなかったもんだから……」
「だって仕方がなかったンだわね。私《あたし》だって彼様《あん》な窮屈な処《とこ》へ行《い》くよか、芝居へ行った方が幾ら好《い》いか知れないけど、石橋さんの奥様《おくさん》に無理に誘われて辞《ことわ》り切れなかったンだもの。好《い》いわね、其代り阿父様《おとうさま》に願って、お前が此間|中《じゅう》から欲しい欲しいてッてる彼《あれ》ね?」と娘の面《かお》を視て、薄笑いしながら、「彼《あれ》を買って頂いて上げるから……仕方がないから。」
「本当《ほんと》?」と雪江さんも急に莞爾々々《にこにこ》となった。私は見ないでも雪江さんの挙動《ようす》は一々分る。「本当《ほんと》? そんなら好《い》いけど……ちょいとちょいと、其代り……」と小声になって、「ルビー入りよ。」
「不好《いけ》ません不好ません! ルビー入りなんぞッて、其様《そん》な贅沢な事が阿父様《おとうさま》に願えますか?」
「だってえ……尋常《ただ》のじゃあ……」と甘たれた嬌態《しな》をする。
「そんならお止しなさいな。尋常《ただ》ので厭なら、何も強いて買って上げようとは言わないから。」
「あら! ……」と忽ち機嫌を損ねて、「だから阿母《かあ》さんは嫌いよ。直《じき》ああだもの。尋常《ただ》のじゃ厭だって誰も言てやしなくってよ。」
「そんなら、其様《そん》な不足らしい事お言いでない。」
「へえへえ、恐れ入りました」、と莞爾《にっこり》して、「じゃ、尋常《ただ》のでも好《い》いから、屹度《きっと》よ。ねえ、阿母《かあ》さん、欺《だま》しちゃ厭よ。」
「誰がそんな……」
「まあ、好かった!」と又|莞爾《にっこり》して一寸《ちょっと》私の面《かお》を見た。
二十八
私は先刻《さッき》から存在を認めていられないようだから、其隙《そのひま》に窃《こッ》そり雪江さんの面《かお》を視ていたのだ。雪江さんは私よりも一つ二つ、それとも三《みッ》つ位《ぐらい》年下かも知れないが、お出額《でこ》で、円い鼻で、二重|顋《あご》で、色白で愛嬌が有ると謂えば謂うようなものの、声程に器量は美《よ》くなかった。が、若い女は何処となく好くて、私がうッかり面《かお》を視ている所を、不意に其面《そのかお》が此方《こちら》を向いたのだから、私は驚いた。驚いて又|俯向《うつむ》いて、膝前一尺通りの処を佶《きっ》と視据えた。
雪江さんは又|更《あらた》めて私の様子をジロジロ視ているようだったが、
「部屋は何処にするの?」
と阿母《かあ》さんの方を向く。
「え?」と阿母《かあ》さんは雪江さんの面《かお》を視て、「あの、何のかい? 玄関脇の四畳が好かろうと思って。」
「あんな処《とこ》※[#感嘆疑問符、1−8−78] ……」
と雪江さんが一寸《ちょっと》驚くのを、阿母《かあ》さんが眼に物言わせて、了解《のみこ》ませて、
「彼処《あすこ》が一番明るくッて好《い》いから。」
「そう」、と一切の意味を面《かお》から引込《ひッこ》めて、雪江さんは澄して了った。
「おお、そうだっけ」、と阿母《かあ》さんの奥様は想出したように私の方を向いて、「荷物がまだ其儘でしたっけね。今案内させますから、彼方《あッち》へ行って荷物の始末でもなさい。雪江、お前|一寸《ちょっと》案内してお上げ。」
雪江さんが起《た》ったから、私も起《た》って其跟《そのあと》に随《つ》いて今度は椽側へ出た。雪江さんは私より脊《せい》が低い。ふッくりした束髪で、リボンの色は――彼《あれ》は樺色というのか知ら。若い女の後姿というものは悪くないものだ。
椽側を後戻りして又玄関へ出ると、成程玄関脇に何だか一間ある。
「此処よ。」
と雪江さんが衝《つい》と其処へ入ったから、私も続いて中へ入った。奥様は明るいといったけれど、何だか薄暗い長四畳で、入るとブクッとして変な足応《あしごた》えだったから、先ず下を見ると、畳は茶褐色だ。西に明取《あかりと》りの小窓があ
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