モ《まだる》ッこい、氷嚢を頭へ載《のっ》けて、其上から頬冠《ほおかむ》りをして、夜《よ》の目も眠《ね》ずに、例の鵜呑《うのみ》をやる。又|鵜呑《うのみ》で大抵間に合う。間に合わんのは作文に数学|位《ぐらい》のものだが、作文は小学時代から得意の科目で、是は心配はない。心配なのは数学の奴だが、それをも無理に狼狽《あわ》てた鵜呑《うのみ》式で押徹《おしとお》そうとする、又不思議と或程度迄は押徹《おしとお》される。尤も是はかね合《あい》もので、そのかね合《あい》を外すと、落《おっ》こちる。私も未だ試験慣れのせぬ中《うち》、ふと其かね合《あい》を外して落《おッ》こちた時には、親の手前、学友の手前、流石《さすが》に面目《めんぼく》なかったから、少し学校にも厭気が差して、其時だけは一寸《ちょっと》学校教育なんぞを齷促《あくせく》して受けるのが、何となく馬鹿気た事のように思われた。が、世間を見渡すと、皆《みんな》此無意味な馬鹿気た事を平気で懸命に行《や》っている。一人として躊躇している者はない。其中で私一人|其様《そん》な事を思うのは何だか薄気味悪《うすきびわる》かったから、狼狽《あわ》てて、いや、馬鹿気ているようでも、矢張《やっぱり》必要の事なんだろうと思直《おもいなお》して、素知《そし》らん顔して、其からは落第の恥辱を雪《すす》がねば措《お》かぬと発奮し、切歯《せっし》して、扼腕《やくわん》して、果《はた》し眼《まなこ》になって、又鵜の真似を継続して行《や》った。
鵜の真似でも何でも、試験の成績さえ良ければ、先生方も満足せられる、内でも親達が満足するから、私は其で好《い》い事と思っていた。然うして多く学んで殆ど何も得《う》る所がない中《うち》に、いつしか中学も卒業して、卒業式には知事さんも「諸君は今回卒業の名誉を荷うて……」といった。内でも赤飯《せきはん》を焚《た》いて、お目出度いお目出度いと親達が右左から私を煽《あお》がぬ許りにして呉れた。してみれば、矢張《やッぱり》名誉でお目出度いのに違いないと思って、私も大《おおい》に得意になっていた。
二十三
中学も卒業した。さて今後は如何《どう》するという愈《いよいよ》胸の轟く問題になった。
まだ中学に居る頃からの宿題で、寐ても寤《さ》めても是ばかりは忘れる暇《ひま》もなかったのだが、中学を卒業してもまだ極《きま》らずに居たのだ。
極《きま》らぬのは私ではない。私は疾《と》うに極《き》めていた、無論東京へ行くと。
東京は如何《どん》な処だか人の噂に聞く許《ばかり》で能《よ》くは知らなかったが、私も地方育ちの青年だから、誰も皆思うように、東京へ出て何処《どこ》かの学校へ入りさえすれば、黙っていても自然と運が向いて来て、或は海外留学を命ぜられるようになるかも知れぬ。若し然うなったら……と目を開《あ》いて夢を見ていたのも昨日《きのう》や今日の事でないから、何でも角《か》でも東京へ出たいのだが、さて困った事には、珍しくもない話だけれど、金の出処《でどころ》がない。
父は其頃県庁の小吏であった。薄給でかつがつ一家を支えていたので、月給だけでは私を中学へ入れる事すら覚束《おぼつか》なかったのだが、幸い親譲りの地所が少々と小さな貸家が二軒あったので、其上りで如何《どう》にか斯うにか糊塗《まじく》なっていたのだ。だから到底《とて》も私を東京へ遣《や》れないという父の言葉に無理もないが、しかし……私は矢張《やっぱり》東京へ出たい。
父は其頃未だ五十であった。達者な人だけに気も若くて、まだまだ十年や十五年は大丈夫生ていると、傍《はた》の私達も思っていたし、自分も其は其気でいた。従って世間の親達のように、早く私を月給取にして、嫁を宛《あて》がって、孫の世話でもしていたいなぞと、そんな気は微塵もないが、何分にも当節は勤向《つとめむき》が六《むず》かしくなって、もう永くは勤まらぬという。成程父は教育といっても、昔の寺子屋教育ぎりで、新聞も漢語字引と首引《くびっぴき》で漸く読み覚えたという人だから、今の学校出の若い者と机を列べて事務を執《と》らされては、嘸《さぞ》辛い事も有ろうと、其様《そん》な事には浮《うわ》の空の察しの無かった私にも、話を聞けば能く分って、同情が起らぬでもないが、しかし、それだからお前は県庁へ勤めるなとして自分一人だけの事は為《し》て呉れと、言われた時には情なかった。父は然うして置いて、何ぞ他《ほか》に気骨の折れぬ力相応の事をして県庁の方は辞職する。辞職しても当分はお前の世話にはなるまいと、財産相応の穏当な案を立てて、私の為をも思っていうのは解っているけれど、しかし私は如何《どう》しても矢張《やッぱり》東京へ出て何処かの学校へ入りたい。
で、親子一つ事を反覆《くりかえ》すばかりで何日|経《た》っても話の纏まらぬ中《うち》に、同窓の何某《なにがし》はもう二三日|前《ぜん》に上京したし、何某《なにがし》は此|月末《つきずえ》に上京するという話も聞く。私は気が気でないから、眼の色を異《ちが》えて、父に逼《せま》り、果は血気に任せて、口惜《くや》し紛れに、金がないと言われるけれど、地面を売れば如何《どう》にかなりそうなものだ、それとも私の将来よりも地面の方が大事なら、学資は出して貰わんでも好い、旅費だけ都合して貰いたい、私は其で上京して苦学生になると、突飛《とっぴ》な事を言い出せば、父は其様《そん》な事には同意が出来ぬという、それは圧制だ、いや聞分《ききわけ》ないというものだと、親子顔を赤めて角芽立《つのめだ》つ側《そば》で、母がおろおろするという騒ぎ。
其時私の為には頗る都合の好い事があった。私と同期の卒業生で父も懇意にする去る家の息子が、何処のも同じ様に東京行きを望んで、親に拒まれて、自暴《やけ》を起し、或夜|窃《ひそか》に有金《ありがね》を偸出《ぬすみだ》して東京へ出奔すると、続いて二人程其真似をする者が出たので、同じ様な息子を持った諸方の親々《おやおや》の大恐慌となった。父も此一件から急に我《が》を折って、彼方此方《あちこち》の親類を駈廻《かけまわ》った結果、金の工面《くめん》が漸く出来て、最初は甚《ひど》く行悩んだ私の遊学の願も、存外難なく聴《ゆる》されて、遂に上京する事になった時の嬉しさは今に忘れぬ。
二十四
愈《いよいよ》出発の当日となった。待ちに待った其日ではあるけれど、今となっては如何《どう》やら一日位は延ばしても好《い》いような心持になっている中《うち》に、支度はズンズン出来て、さて改まって父母《ちちはは》と別れの杯《さかずき》の真似事をした時には、何だか急に胸が一杯になって不覚《つい》ホロリとした。母は固《もと》より泣いた、快活な父すら目出度い目出度いと言いながら、頻《しきり》に咳をして涕《はな》[#「涕」はママ]を拭《か》んでいた。
誂《あつら》えの俥《くるま》が来る。性急《せっかち》の父が先ず狼狽《あわ》て出して、座敷中を彷徨《うろうろ》しながら、ソレ、風呂敷包を忘れるな、行李は好《い》いか、小さい方だぞ、コココ蝙蝠傘《こうもりがさ》は己《おれ》が持ってッてやる、と固《もと》より見送って呉れる筈なので、自分も一台の俥《くるま》に乗りながら、何は載ったか、何は……ソレ、あの、何よ……と、焦心《あせ》る程尚お想出せないで、何やら分らぬ手真似をして独り無上《むしょう》に車上で騒ぐ。
母も門口まで送って出た。愈《いよいよ》俥《くるま》が出ようとする時、母は悲しそうに凝《じっ》と私の面《かお》を視て、「じゃ、お前ねえ、カカ身体を……」とまでは言い得たが、後《あと》が言えないで、涙になった。
私は故意《わざ》と附元気《つけげんき》の高声《たかごえ》で、「御機嫌よう!」と一礼すると、俥《くるま》が出たから、其儘|正面《まむき》になって了ったが何だか後髪を引かれるようで、俥《くるま》が横町を出離れる時、一寸《ちょっと》後《うしろ》を振向いて見たら、母はまだ門前に悄然《しょんぼり》と立っていた。
道々も故意《わざ》と平気な顔をして、往来を眺めながら、勉《つとめ》て心を紛らしている中《うち》に、馴染の町を幾つも過ぎて俥《くるま》が停車場《ステーション》へ着いた。
まだ発車には余程|間《あいだ》があるのに、もう場内は一杯の人で、雑然《ごたごた》と騒がしいので、父が又|狼狽《あわ》て出す。親しい友の誰彼《たれかれ》も見送りに来て呉れた。其面《そのかお》を見ると、私は急に元気づいて、例《いつ》になく壮《さかん》に饒舌《しゃべ》った。何だか皆が私の挙動に注目しているように思われてならなかった。無論友達は家《うち》で立際《たちぎわ》に私の泣いたことを知る筈はないから……
軈《やが》て発車の時刻になって、汽車に乗込む。手持無沙汰な落着かぬ数分《すふん》も過ぎて、汽笛が鳴る。私が窓から首を出して挨拶をする時、汽車は動出《うごきだ》して、父の眼をしょぼつかせた顔がチラリとして直ぐ後《あと》になる、見えなくなる。もうプラットフォームを出離れて、白ペンキの低い柵が走る、其向うの後向《うしろむ》きの二階家が走る、平屋が走る。片側町《かたかわまち》になって、人や車が後《あと》へ走るのが可笑《おか》しいと、其を見ている中《うち》に、眼界が忽ち豁然《からっ》と明くなって、田圃《たんぼ》になった。眼を放って見渡すと、城下の町の一角が屋根は黒く、壁は白く、雑然《ごたごた》と塊《かた》まって見える向うに、生れて以来十九年の間《あいだ》、毎日仰ぎ瞻《み》たお城の天守が遙に森の中に聳えている。ああ、家《うち》は彼下《あのした》だ……と思う時、始めて故郷を離れることの心細さが身に染《し》みて、悄然《しょんぼり》としたが、悄然《しょんぼり》とする側《そば》から、妙に又気が勇む。何だか籠のような狭隘《せせこま》しい処から、茫々と広い明るい空のような処へ放されて飛んで行くようで、何となく心臓の締るような気もするが、又何処か暢《のん》びりと、急に脊丈が延びたような気もする。
こうした妙な心持になって、心当《こころあて》に我家の方角を見ていると、忽ち礑《はた》と物に眼界を鎖《とざ》された。見ると、汽車は截割《たちわ》ったように急な土手下を行くのだ。
二十五
申後れたが、私は法学研究のため上京するのだ。
其頃の青年に、政治ではない、政論に趣味を持たん者は幾《ほと》んど無かった。私も中学に居る頃から其が面白くて、政党では自由党が大の贔負《ひいき》であったから、自由党の名士が遊説《ゆうぜい》に来れば、必ず其演説を聴きに行ったものだ。無論板垣さんは自分の叔父さんか何ぞのように思っていた。
実際の政界の事情は些《ちッ》とも分っていなかった。自由党は如何《どう》いう政党だか、改進党と如何《どう》違うのだか、其様《そん》な事は分っているような風をして、実は些《ちッ》とも分っていなかったが、唯|初心《うぶ》な眼で局外から観ると、何だか自由党の人というと、其人の妻子は屹度《きっと》饑《うえ》に泣いてるように思われて、妻子が饑《うえ》に泣く――人情忍び難い所だ。その忍び難い所を忍んで、妻や子を棄てて置いて、而《そう》して自分は芸者狂いをするのじゃない、四方に奔走して、自由民権の大義を唱《とな》えて、探偵に跟随《つけ》られて、動《やや》もすれば腰縄で暗い冷たい監獄へ送られても、屈しない。偉いなあ! と、こう思っていたから、それで好きだった。
好きは好きだったが、しかし友人の誰彼《たれかれ》のように、今直ぐ其真似は仕度《した》くない。も少し先の事にしたい。兎角理想というものは遠方から眺めて憧憬《あこが》れていると、結構な物だが、直ぐ実行しようとすると、種々《いろいろ》都合の悪い事がある。が、それでは何だか自分にも薄志弱行《はくしじゃっこう》のように思われて、何だか心持が悪かったが、或時何かの学術雑誌を読むと、今の青年は自己の当然修むべき学業を棄てて
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