A誰彼《たれかれ》の見界《みさかい》はない、皆に喜んで飛付く。初ての人は驚いて、子供なんぞは泣出すのもある。すると、ポチは吃驚《びっくり》して其面《そのかお》を視ている。
人でさえ是だから同類は尚お恋しがる。犬が外を通りさえすれば屹度《きっと》飛んで出る。喧嘩するのかと、私がハラハラすれば、喧嘩はしない、唯|壮《さかん》に尻尾を掉《ふ》って鼻を嗅合《かぎあ》う。大抵の犬は相手は子供だという面《かお》をして、其儘|※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《さっさ》と行《い》こうとする。どっこいとポチが追蒐《おッか》けて巫山戯《ふざけ》かかる。蒼蠅《うるさ》いと言わぬばかりに、先の犬は歯を剥《む》いて叱る。すると、ポチは驚いて耳を伏せて逃げて来る。
ポチは此様《こん》な無邪気な犬であったから、友達は直《じき》出来た。
友達というのは黒と白との二匹で、いずれもポチよりは三ツ四ツも年上であった。歴とした家《うち》の飼い犬でありながら、品性の甚だ下劣な奴等で、毎日々々朝から晩まで近所の掃溜《はきだめ》を※[#「求/食」、第4水準2−92−54]《あさ》り歩き二度の食事の外《ほか》の間食《かんしょく》ばかり貪《むさぼ》っている。以前から私の家《うち》の掃溜《はきだめ》へも能《よ》く立廻《たちまわ》って来て、馴染《なじみ》の犬共ではあるけれど、ポチを飼うようになってからは、尚お頻繁《ひんぱん》に立廻って来る。ポチの喫剰《たべあま》しを食いに来るので。
ポチは大様《おおよう》だから、余処《よそ》の犬が自分の食器へ首を突込んだとて、怒《おこ》らない。黙って快く食わせて置く。が、他《ひと》の食うのを見て自分も食気附《しょくきづ》く時がある。其様《そん》な時には例の無邪気で、うッかり側《そば》へ行って一緒に首を突込もうとする。無論先の犬は、馳走になっている身分を忘れて、大《おおい》に怒《いか》って叱付ける。すると、ポチは驚いて飛退《とびの》いて、不思議そうに小首を傾《かし》げて、其ガツガツと食うのを黙って見ている。
父は馬鹿だと言うけれど、馬鹿気て見える程無邪気なのが私は可愛《かわ》ゆい。尤も後《のち》には悪友の悪感化を受けて、友達と一緒に近所の掃溜《はきだめ》へ首を突込み、鮭《しゃけ》の頭を舐《しゃぶ》ったり、通掛《とおりがか》りの知らん犬と喧嘩したり、屑拾いの風体を怪しんで押取囲《おっとりかこ》んで吠付いたりした事も無いではないが、是れは皆友達を見よう見真似に其の尻馬に騎《の》って、訳も分らずに唯騒ぐので、ポチに些《ち》っとも悪意はない。であるから、独りの時には、矢張《やっぱり》元の無邪気な人懐こい犬で、滑稽《とぼけ》た面《かお》をして他愛のない事ばかりして遊んでいる。惟《おも》うに、私等親子の愛《いつく》しみを受けて、曾て痛い目に遭《あ》った事なく、暢気《のんき》に安泰に育ったから、それで此様《こんな》に無邪気であったのだろうが、ああ、想出しても無念でならぬ。何故私はポチを躾《しつ》けて、人を見たら皆悪魔と思い、一生世間を睨《ね》め付けては居させなかったろう? ※[#「(來+攵)/心」、第4水準2−12−72]《なま》じ可愛がって育てた為に、ポチは此様《こんな》に無邪気な犬になり、無邪気な犬であった為に、遂に残忍な刻薄な人間の手に掛って、彼様《あん》な非業の死を遂げたのだ。
十七
或日の事。卑《さも》しい事を言うようだが、其日の弁当の菜《さい》は母の手製の鰹節《かつぶし》でんぶで、私も好きだが、ポチの大好きな物だったから、我慢して半分以上残したのが、チャンと弁当箱に入っている。早く帰ってこれが喫《たべ》させたかったので、待憧《まちこが》れた放課の鐘が鳴るや、大急ぎで学校の門を出て、友達は例の通り皆道草を喰っている中を、私一人は切々《せっせ》と帰って来ると、俄《にわか》に行手がワッと騒がしくなって、先へ行く児《こ》が皆|雪崩《なだ》れて、ドッと道端《みちばた》の杉垣へ片寄ったから、驚いてヒョイと向うを見ると、ツイ四五間先を荷車が来る。瞥《ちら》と見たばかりでは何の車とも分らなかった。何でも可なり大きな箱車《はこぐるま》で、上から菰《こも》を被《かぶ》せてあったようだったが、其を若い土方風の草鞋穿《わらじばき》の男が、余り重そうにもなく、※[#「勹/夕」、第3水準1−14−76]々《さっさ》と引いて来る。車に引添《ひっそ》うてまだ一人、四十許りの、四角な面《かお》の、茸々《もじゃもじゃ》と髭《ひげ》の生えた、人相の悪い、矢張《やっぱり》草鞋穿《わらじばき》の土方風の男が、古ぼけて茶だか鼠だか分らなくなった、塵埃《ほこり》だらけの鉢巻もない帽子を阿弥陀《あみだ》に冠《かぶ》って、手ぶらで何だか饒舌《しゃべ》りながら来る。
道端《みちばた》の子供等は皆好奇の目を円くして此怪し気な車を見迎え見送って、何を言うのか、口々に譟然《がやがや》と喚《わめ》いている中から、忽ち一段|際立《きわだ》って甲高《かんだか》な、「犬殺しだい犬殺しだい!」という叫声《さけびごえ》が其処此処から起る。と聞くより、私はハッとした。全身の血の通いが急に一|時《じ》に止ったような気がして、襟元から冷りとする、足が窘蹙《すく》む……と、忽ち心臓が破裂せんばかりに鼓動し出す。「ポチは? ……」という疑問が曇ったような頭の中で、ちらりと電光《いなずま》のように閃いて又暗中に没する時、ガタガタと車が前を通る。
後で聞けば、菰《こも》の下から犬の尻尾とか足とかが見えていたというけれど、私が其時|佶《きっ》と目を据えて視たのでは、唯車が躍って菰《こも》が魂の有るようにゆさゆさと揺《ゆれ》るのが見えたばかりで、他《ほか》には何も見えなかった。或は最う目も霞んでいたのかも知れぬ。
「おッそろしい餓鬼だなあ! まだ彼様《あんな》に出て来やがら……」
と太い煤《すす》けたような野良声《のらごえ》で、――確に年上の奴に違いないが、然う言うのが聞えた。
ガタンと一つ小石に躍って、車は行過ぎて了う。
跡は両側の子供が又|続々《ぞろぞろ》と動き出し、四辺《あたり》が大黒帽に飛白《かすり》の衣服《きもの》で紛々《ごたごた》となる中で、私一人は佇立《たちどま》ったまま、茫然として轅棒《かじぼう》の先で子供の波を押分けて行くように見える車の影を見送っていた。
と、誰だか私の側《そば》へ来て、何か言う。顔は見覚えのある家《うち》の近所の何とかいう児だが、言ってる事が分らない。私は黙って其面《そのかお》を視たばかりで、又|窃《そっ》と車の行った方角を振向いて見ると、最う車は先の横町を曲ったと見えて、此方《こちら》を向いて来る沢山の子供の顔が見えるばかりだ。
「ねえ、君、君ン所《とこ》のポチも殺されたかも知れないぜ。」
という声が此時ふと耳に入って、私はハッと我に反《かえ》ると、
「啌《うそ》だい! 殺されるもんか! 札が附いてるもの……」
と狼狽《あわて》て打消てから、始めて木村の賢ちゃんという児と話をしている事が分った。
「やあ……札が附いてたって、殺されますから。へえ。僕ン所《とこ》の阿爺《おとっ》さんが……」
と賢ちゃんが言掛けると、仲善《なかよし》の友の言う事だが、私は何だか急に口惜《くや》しくなって、赫《かっ》と急込《せきこ》んで、
「何でい! 大丈夫だい※[#感嘆符二つ、1−8−75] ……」
と怒鳴り付けた。賢ちゃんが吃驚《びッくり》して眼を円くした時、私は卒然《いきなり》バタバタと駈出し、前へ行く児にトンと衝当《つきあた》る。何しやがるンだいと、其児に突飛されて、又誰だかに衝当《つきあた》る。二三度|彼方此方《あちこち》で小突かれて、蹌踉《よろよろ》として、危《あや》うかったのを辛《やッ》と踏耐《ふんごた》えるや、後《あと》をも見ずに逸散《いっさん》に宙を飛で家《うち》へ帰った。
十八
門は明放《あけばな》し、草履は飛び飛びに脱棄てて、片足が裏返しになったのも知らず、「阿母《おっか》さん阿母さん!」と卒然《いきなり》内へ喚《わめ》き込んだが、母の姿は見えないで、台所で返事がする。
誰だか来て居るようで、話声がしているけれど、其様《そん》な事に頓着しては居られない。学校道具を座敷の中央《まんなか》へ抛《ほう》り出して置いて台所へ飛んで行くなり、
「阿母《おッか》さん! ……ポチは? ……」
と喘《あえ》ぎ喘ぎまず聞いてみた。
母は黙って此方《こちら》を向いた。常は滅入ったような蒼い面《かお》をしている人だったが、其時|此方《こちら》を向いた顔を見ると、微《ぼッ》と紅《あか》くなって、眼に潤《うる》みを持ち、どうも尋常《ただ》の顔色《かおいろ》でない。私は急に何か物に行当ったようにうろうろして、
「殺されたかい? ……」
と凝《じっ》と母の面《かお》を視た時には、気息《いき》が塞《つま》りそうだった。
母は一寸《ちょっと》躊躇《ためら》ったようだったが、思切って投出すように、
「殺されたとさ……」
逸散《いっさん》に駈て来て、ドカッと深い穴へ落ちたら、彼様《あん》な気がするだろうと思う。私は然う聞くと、ハッと内へ気息《いき》を引いた。と、張詰めて破裂《はちき》れそうになっていた気がサッと退《ひ》いて、何だか奥深い穴のような処へ滅入って行くようで、四辺《あたり》が濛《ぼっ》と暗くなると、母の顔が見えなくなった……
「炭屋さんが見て来なすッたンだッさ。」
という声がふと耳に入ると、クワッとまた其処らが明るくなって眼の前に丸髷が見える。母は又|彼方《あちら》向いて了ったのだ。
「じゃ、木村さん処《とこ》の前で殺されたんですね?」と母の声がいう。
「へえ」、という者がある。機械的に其方へ面《かお》を向けると、腰障子の蔭に、旧い馴染《なじみ》の炭屋の爺やの、小鼻の脇に大きな黒子《ほくろ》のある、皺《しわ》だらけの面《かお》が見えて、前歯の二本脱けた間から、チョコチョコ舌を出して饒舌《しゃべ》っている声が聞える。「丁度あの木村さんの前ン処《とこ》なんで。手前《てまえ》は初めは何だと思いました。棒を背後《うしろ》へ匿《かく》してましたから、遠くで見たんじゃ、ほら、分りませんや。一寸《ちょいと》見ると何だか土方のような奴で、其奴《そいつ》がこう手を背後《うしろ》へ廻しましてな、お宅の犬の寝ている側《そば》へ寄ってくから、はてな、何をするンだろう、と思って見ていますと、彼様《あん》な人懐《ひとなつ》っこい犬だから、其奴《そいつ》の面《かお》を見て、何にも知らずに尻尾を掉《ふ》ってましたよ。可哀《かわい》そうに! 普通《なみ》の者なら、何ぼ何でも其様《そん》なにされちゃ、手を下《おろ》せた訳合《わけあい》のもんじゃございません、――ね、今日《こんにち》人情としましても。それを、貴女《あなた》……いや、どうも、ああいう手合に逢っちゃ敵《かな》いませんて、卒然《いきなり》匿《かく》してた棒を取直して、おやッと思う間に、ポンと一つ鼻面を打《ぶ》ちました。そうするとな、お宅のは勃然《むっくり》起きましてな、キリキリと二三遍廻って、パタリと倒れると、仰向きになってこう四足《よつあし》を突張りましてな、尻尾でバタバタ地面《ちべた》を叩いたのは、あれは大方|苦《くるし》がったんでしょうが、傍《はた》で見ていりゃ何だか喜んで尻尾を掉《ふ》ったようで、妙な塩梅《あんばい》しきでしたがな、其処を、貴女《あなた》、またポカポカと三つ四つ咽喉《のど》ン処《とこ》を打《ぶ》ちますとな、もう其切《それっき》りで、ギャッともスウとも声を立て得ないで、貴女《あなた》……」
私はもう後《あと》は聴いていなかった。誰《たれ》を憚《はばか》る必要もないのに、窃《そっ》と目立たぬように後方《うしろ》へ退《さが》って、狐鼠々々《こそこそ》と奥へ引込《ひっこ》んだ。ベタリと机の前へ坐った。キリキリと二三遍廻ったという今聞いた話が胸に浮ぶと、そのキリキ
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