、から、私は理《り》を聞かせる為に敢て耻を言うが、ポチは全く私の第二の命であった。其癖初めを言えば、欲しくて貰った犬ではない、止むことを得ず……いや、矢張《やっぱり》あれが天から授かったと云うのかも知れぬ。
 忘れもせぬ、祖母の亡《なく》なった翌々年《よくよくとし》の、春雨のしとしとと降る薄ら寒い或夜の事であった。宵惑《よいまどい》の私は例の通り宵の口から寝て了って、いつ両親《りょうしん》は寝《しん》に就いた事やら、一向知らなかったが、ふと目を覚すと、有明《ありあけ》が枕元を朦朧《ぼんやり》と照して、四辺《あたり》は微暗《ほのぐら》く寂然《しん》としている中で、耳元近くに妙な音がする。ゴウというかとすれば、スウと、或は高く或は低く、単調ながら拍子を取って、宛然《さながら》大鋸《おおのこぎり》で大丸太を挽割《ひきわ》るような音だ。何だろうと思って耳を澄していると、時々其音が自分と自分の単調に※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》いたように、忽ちガアと慣れた調子を破り、凄じい、障子の紙の共鳴りのする程の音を立てて、勢込んで何処へか行きそうにして、忽ち物に行当ったように、礑《はた》と止む。と、しばらく闃寂《ひッそ》となる――その側《そば》から、直ぐ又穏かにスウスウという音が遠方に聞え出して、其が次第に近くなり、荒くなり、又耳元で根気よくゴウ、スウ、ゴウ、スウと鳴る。
 私は夜中に滅多に目を覚した事が無いから、初は甚《ひど》く吃驚《びっくり》したが、能《よ》く研究して見ると、なに、父の鼾《いびき》なので、漸《やっ》と安心して、其儘再び眠ろうとしたが、壮《さかん》なゴウゴウスウスウが耳に附いて中々|眠付《ねつか》れない。仕方がないから、聞える儘に其音に聴入っていると、思做《おもいな》しで種々《いろいろ》に聞える。或は遠雷《とおかみなり》のように聞え、或は浪の音のようでもあり、又は火吹達磨《ひふきだるま》が火を吹いてるようにも思われれば、ゴロタ道を荷馬車が通る音のようにも思われる。と、ふと昼間見た絵本の天狗が酒宴を開いている所を憶出して、阿爺《おとっ》さんが天狗になってお囃子《はやし》を行《や》ってるのじゃないかと思うと、急に何だか薄気味《うすきび》悪くなって来て、私は頭からスポッと夜着《よぎ》を冠《かむ》って小さくなった。けれども、天狗のお囃子《はやし》は夜着の襟から潜り込んで来て、耳元に纏《へば》り付いて離れない。私は凝然《じっ》と固くなって其に耳を澄ましていると、何時《いつ》からとなくお囃子《はやし》の手が複雑《こん》で来て、合の手に遠くで幽《かす》かにキャンキャンというような音が聞える。ゴウという凄じい音の時には、それに消圧《けお》されて聞えぬが、スウという溜息のような音になると、其が判然《はっきり》と手に取るように聞える。不思議に思って益《ますます》耳を澄ましていると、合の手のキャンキャンが次第に大きく、高くなって、遂には鼾《いびき》の中を脱け出し、其とは離ればなれに、確に門前《もんぜん》に聞える。
 こうなって見ると、疑もなく小狗《こいぬ》の啼き声だ。時々|咽喉《のど》でも締《しめ》られるように、消魂《けたたま》しく※[#「口+言」、第4水準2−3−93]々《きゃんきゃん》と啼き立てる其の声尻《こわじり》が、軈《やが》てかぼそく悲し気になって、滅入るように遠い遠い処へ消えて行く――かとすれば、忽ち又近くで堪《た》え切れぬように啼き出して、クンクンと鼻を鳴らすような時もあり、ギャオと欠《あく》びをするような時もある。

          十一

 私は元来動物好きで、就中《なかんずく》犬は大好だから、近所の犬は大抵|馴染《なじみ》だ。けれども、此様《こんな》繊細《かぼそ》い可愛《いたい》げな声で啼くのは一疋も無い筈だから、不思議に思って、窃《そっ》と夜着の中から首を出すと、
「如何《どう》したの? 寝られないのかえ?」
 と、母が寝反りを打って此方《こちら》を向いた。私は此返答は差措《さしお》いて、
「あれは白じゃないねえ、阿母《おッか》さん? 最《もッ》と小さい狗《いぬ》の声だねえ? 如何《どう》したんだろう?」
「棄狗《すていぬ》さ。」
「棄狗《すていぬ》ッて何《なアに》?」
「棄狗《すていぬ》ッて……誰かが棄《すて》てッたのさ。」
 私はしばらく考えて、
「誰《たれ》が棄《すて》てッたンだろう?」
「大方|何処《どッ》かの……何処《どッ》かの人さ。」
 何処《どッ》かの人が狗《いぬ》を棄《すて》てッたと、私は二三度|反覆《くりかえ》して見たが、分らない。
「如何《どう》して棄《すて》てッたんだろう?」
 蒼蠅《うるさい》よ、などという母ではない。何処迄も相手になって、其意味を説明して呉れて、もう晩《おそ》いから黙ってお寐《ね》と優しく言って、又|彼方《あちら》向いて了った。
 私も亦夜着を被《かぶ》った。狗《いぬ》は門前を去ったのか、啼声が稍《やや》遠くなるに随《つ》れて、父の鼾《いびき》が又|蒼蠅《うるさ》く耳に附く。寝られぬ儘に、私は夜着の中で今聴いた母の説明を反覆《くりかえ》し反覆し味《あじわ》って見た。まず何処かの飼犬が椽の下で児《こ》を生んだとする。小《ちッ》ぽけなむくむくしたのが重なり合って、首を擡《もちゃ》げて、ミイミイと乳房を探している所へ、親犬が余処《よそ》から帰って来て、其側《そのそば》へドサリと横になり、片端《かたはし》から抱え込んでベロベロ舐《なめ》ると、小さいから舌の先で他愛もなくコロコロと転がされる。転がされては大騒ぎして起返り、又ヨチヨチと這《は》い寄って、ポッチリと黒い鼻面でお腹《なか》を探り廻《まわ》り、漸く思う柔かな乳首《ちくび》を探り当て、狼狽《あわて》てチュウと吸付いて、小さな両手で揉《も》み立《た》て揉み立て吸出すと、甘い温《あった》かな乳汁《ちち》が滾々《どくどく》と出て来て、咽喉《のど》へ流れ込み、胸を下《さが》って、何とも言えずお甘《い》しい。と、腋の下からまだ乳首に有附かぬ兄弟が鼻面で割込んで来る。奪《と》られまいとして、産毛《うぶげ》の生えた腕を突張り大騒ぎ行《や》ってみるが、到頭|奪《と》られて了い、又其処らを尋ねて、他《ほか》の乳首に吸付く。其中《そのうち》にお腹も満《くち》くなり、親の肌で身体も温《あたた》まって、溶《とろ》けそうな好《い》い心持になり、不覚《つい》昏々《うとうと》となると、含《くく》んだ乳首が抜けそうになる。夢心地にも狼狽《あわて》て又吸付いて、一しきり吸立てるが、直《じき》に又他愛なく昏々《うとうと》となって、乳首が遂に口を脱ける。脱けても知らずに口を開《あ》いて、小さな舌を出したなりで、一向正体がない……其時忽ち暗黒《くらやみ》から、茸々《もじゃもじゃ》と毛の生えた、節くれ立った大きな腕がヌッと出て、正体なく寝入っている所を無手《むず》と引掴《ひッつか》み、宙に釣《つる》す。驚いて目をポッチリ明き、いたいげな声で悲鳴を揚げながら、四|足《そく》を張って藻掻《もが》く中《うち》に、頭から何かで包まれたようで、真暗になる。窮屈で息気《いき》が塞《つま》りそうだから、出ようとするが、出られない。久《しば》らく藻掻《もが》いて居る中《うち》に、ふと足掻《あが》きが自由になる。と、領元《えりもと》を撮《つま》まれて、高い高い処からドサリと落された。うろうろとして其処らを視廻すけれど、何だか変な淋しい真暗な処で、誰も居ない。茫然としていると、雨に打れて見る間に濡しょぼたれ、怕《おそ》ろしく寒くなる。身慄《みぶる》い一つして、クンクンと親を呼んで見るが、何処からも出て来ない。途方に暮れて、ヨチヨチと這出し、雨の夜中を唯一人、温《あたた》かな親の乳房を慕って悲し気に啼廻《なきまわ》る声が、先刻《さっき》一度門前へ来て、又何処へか彷徨《さまよ》って行ったようだったが、其が何時《いつ》か又戻って来て、何処を如何《どう》潜り込んだのか、今は啼声が正《まさ》しく玄関先に聞える。

          十二

「阿母《おっか》さん阿母さん、門の中へ入って来たようだよ。」
 と、私が何だか居堪《いたたま》らないような気になって又母に言掛けると、母は気の無さそうな声で、
「そうだね。」
「出て見ようか?」
「出て見ないでも好《い》いよ。寒いじゃないかね。」
「だってえ……あら、彼様《あんな》に啼てる……」
 と、折柄《おりから》絶入るように啼入る狗《いぬ》の声に、私は我知らず勃然《むッくり》起上ったが、何だか一人では可怕《おッかな》いような気がして、
「よう、阿母《おッか》さん、行って見ようよう!」
「本当《ほんと》に仕様がない児《こ》だねえ。」
 と、口小言を言い言い、母も渋々起きて、雪洞《ぼんぼり》を点《つ》けて起上《たちあが》ったから、私も其後《そのあと》に随《つ》いて、玄関――と云ってもツイ次の間だが、玄関へ出た。
 母が履脱《くつぬぎ》へ降りて格子戸の掛金《かきがね》を外し、ガラリと雨戸を繰ると、颯《さっ》と夜風が吹込んで、雪洞《ぼんぼり》の火がチラチラと靡《なび》く。其時小さな鞠《まり》のような物が衝《つ》と軒下を飛退《とびの》いたようだったが、軈《やが》て雪洞《ぼんぼり》の火先《ひさき》が立直って、一道の光がサッと戸外《おもて》の暗黒《やみ》を破り、雨水の処々に溜った地面《じづら》を一筋細長く照出した所を見ると、ツイ其処に生後まだ一ヵ月も経《た》たぬ、むくむくと肥《ふと》った、赤ちゃけた狗児《いぬころ》が、小指程の尻尾《しっぽ》を千切れそうに掉立《ふりた》って、此方《こちら》を瞻上《みあ》げている。形体《なり》は私が寝ていて想像したよりも大きかったが、果して全身雨に濡れしょぼたれて、泥だらけになり、だらりと垂れた割合に大きい耳から雫《しずく》を滴《たら》し、ぽっちりと両つの眼を青貝のように列べて光らせている。
「おやおや、まあ、可愛らしい! ……」と、母も不覚《つい》言って了った。
 況《いわん》や私は犬好だ。凝《じッ》として視ては居られない。母の袖の下から首を出して、チョッチョッと呼んで見た。
 と、左程|畏《おそ》れた様子もなく、チョコチョコと側《そば》へ来て流石《さすが》に少し平べったくなりながら、頭を撫《な》でてやる私の手を、下からグイグイ推上《おしあ》げるようにして、ベロベロと舐廻《なめまわ》し、手を呉れる積《つもり》なのか、頻《しきり》に円い前足を挙げてバタバタやっていたが、果は和《やんわ》りと痛まぬ程に小指を咬む。
 私は可愛《かわゆ》くて可愛くて堪《た》まらない。母の面《かお》を瞻上《みあ》げながら、少し鼻声を出し掛けて、
「阿母《おっか》さん、何か遣って。」
「遣るも好《い》いけど、居附いて了うと、仕方がないねえ。」
 と、口では拒むような事を言いながら、それでも台所へ行って、欠茶碗《かけぢゃわん》に冷飯を盛って、何かの汁を掛けて来て呉れた。
 早速|履脱《くつぬぎ》へ引入れて之を当がうと、小狗《こいぬ》は一寸《ちょっと》香《か》を嗅いで、直ぐ甘《うま》そうに先ずピチャピチャと舐出《なめだ》したが、汁が鼻孔《はな》へ入ると見えて、時々クシンクシンと小さな嚔《くしゃみ》をする。忽ち汁を舐尽《なめつく》して、今度は飯に掛った。他《ほか》に争う兄弟も無いのに、切《しきり》に小言を言いながら、ガツガツと喫《た》べ出したが、飯は未だ食慣《くいな》れぬかして、兎角上顎に引附《ひッつ》く。首を掉《ふ》って見るが、其様《そん》な事では中々取れない。果は前足で口の端《はた》を引掻《ひッか》くような真似をして、大藻掻《おおもが》きに藻掻《もが》く。
 此隙《このひま》に私は母と談判を始めて、今晩一晩泊めて遣ってと、雪洞《ぼんぼり》を持った手に振垂《ぶらさが》る。母は一寸《ちょっと》渋ったが、もう斯うなっては仕方がない。阿爺《おとっ》さんに叱られるけれど、と言いながら、詰り桟俵法師《さんだらぼうし》を捜して来て、履脱《くつぬぎ》の隅に
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