フ半額金五円也を呈して、不覚《つい》又敬意を表して了った。
五十八
お糸さんに敬意を表して見ると、もう半端《はんぱ》になったから、国への送金は見合せていると、母から催促の手紙が来た。其中《そのうち》に何だか父の加減が悪くて医者に掛っているとかで、物入が多くて困るとかいうような事も書いてあったが、例の愚痴《ぐち》だと思って、其内に都合して送ると返事を出して置いた。其時は真《しん》に其積りで強《あなが》ち気休めではなかったのだが、彼此《かれこれ》取紛《とりまぎ》れて不覚《つい》其儘になっている一方では、五円の金は半襟二掛より効能《ききめ》があって、夫《それ》以来お糸さんが非常に優待して呉れるが嬉しい。追々|馴染《なじみ》も重なって常談《じょうだん》の一つも言うようになる。もう少しで如何《どう》にかなりそうに思えるけれど、何時迄《いつまで》経《た》っても如何《どう》にもならんので、少し焦《じ》れ出して、又欲しそうな物を買って遣《や》ったり、連出《つれだ》して甘《うま》い物を食べさせたり、種々《いろいろ》してみたが、矢張《やっぱり》同じ事で手が出せない。お糸さんという人は滅多に手を出せば、屹度《きっと》甚《ひど》い恥を掻かすけれど、一度手に入れたら、命懸けになる女だと、何故だか私は独りで極《き》めていたから、危険《けんのん》で手が出せなかったが、傍《はた》から観れば、もう余程妙に見えたと見えて、他《た》の客はワイワイいって騒ぐ。下女迄が私の部屋を覗込んでお糸さんが見えないと、奥様《おくさん》は、なぞといって調戯《からか》うようになる。こうなると、お神さんも目に余って、或時何だか厭な事をお糸さんに言ったとかで、お糸さんが憤《おこ》っていた事もある。私は何だか面白いような焦心《じれっ》たいような妙な心持がする。それで夢中になって金ばかり遣《つか》っていたから、一度申訳に聊《いささ》かばかり送金した限《ぎり》で、不覚《つい》国へは無沙汰になっている中《うち》に、父の病気が矢張《やっぱり》好くないとて母からは又送金を求めて来る。遂に伯父からも注意が来た。其時だけは私も少し気が附いて、急いで、書掛けた小説を書上げて若干《なにがし》かの原稿料を受取ったから、明日《あす》は早速送金しようと思っていた晩に、お糸さんが切《しき》りに新富座《しんとみざ》の当り狂言の噂《うわさ》をして観たそうな事を言う。と、私も何だか観せてやり度《たく》なって、芝居だって観ように由っては幾何《いくら》掛るもんかと、不覚《つい》口を滑らせると、お糸さんが例《いつ》になく大層喜んだ。お糸さんは何を貰っても、澄して礼を言って、其場では左程嬉しそうな面《かお》もせぬ女だったが、此時ばかりは余程嬉しかったと見えて、大層喜んだ。
もう後悔しても取反《とりかえ》しが附かなくなって、止《や》むことを得ず好加減《いいかげん》な口実を設けて別々に内を出て、新富座を見物した其夜《そのよ》の事。お糸さんを一足先へ還《かえ》し、私一人|後《あと》から漫然《ぶらり》と下宿へ帰ったのは、夜《よ》の彼此《かれこれ》十二時近くであったろう。もう雨戸を引寄せて、入口の大《おお》ランプも消してあった。跡仕舞《あとじまい》をしているお竹が睡《ねむ》たそうな声でお帰ンなさいと言ったが、お糸さんの姿は見えなかった。
部屋へ来てみると、ランプを細くして既《も》う床も敷《と》ってある。私は桝《ます》でお糸さんと膝を列べている時から、妙に気が燥《いら》って、今夜こそは日頃の望をと、芝居も碌に身に染《し》みなかった。時々ふと気が変って、此様《こん》な女に関係しては結果が面白くあるまいと危ぶむ。其側《そのそば》から直ぐ又今夜こそは是が非でもという気になる。で、今我部屋へ来て床の敷《と》ってあるのを見ると、もう気も坐《そぞ》ろになって、余《よ》の事なぞは考えられん。今にも屹度《きっと》来るに違いない、来たら……と其事ばかりを考えながら、急いで寝衣《ねまき》に着易《きか》えて床へ入ろうとして、ふと机の上を見ると、手紙が載せてある。手に取って見ると、国からの手紙だ。心は狂っていても、流石《さすが》に父の事は気になるから、手早く封を切って読むと、まず驚いた。
五十九
此手紙で見ると、大した事ではないと思っていた父の病気は其後《そのご》甚だ宜しくない。まだ医者が見放したのでは無いけれど、自分は最う到底《とて》も直らぬと覚悟して、切《しき》りに私に会いたがっているそうだ。此手紙御覧次第|直様《すぐさま》御帰国|待入《まちいり》申候《もうしそろ》と母の手で狼狽《うろた》えた文体《ぶんてい》だ。
私は孝行だの何だのという事を、道学先生の世迷言《よまいごと》のように思って、鼻で遇《あし》らっていた男だが、不思議な事には、此時此手紙を読んで吃驚《びっくり》すると同時に、今夜こそはと奮《いき》り立っていた気が忽ち萎《な》えて、父母《ちちはは》が切《しき》りに懐かしく、何だか泣きたいような気持になって、儘になるなら直《すぐ》にも発《た》ちたかったが、こうなると当惑するのは、今日の観劇の費用が思ったよりも嵩《かさ》んで、元より幾何《いくばく》もなかった懐中が甚だ軽くなっている事だ。父が病気に掛ってから、度々送金を迫られても、不覚《つい》怠《おこた》っていたのだから、家《うち》の都合も嘸《さ》ぞ悪かろう。今度こそは多少の金を持って帰らんでは、如何《いか》に親子の間でも、母に対しても面目《めんぼく》ない。といって、お糸さんに迷ってから、散々無理を仕尽した今日此頃、もう一文《もん》の融通《ゆうずう》の余地もなく、又余裕もない。明日《あす》の朝二番か三番で是非|発《た》たなきゃならんがと、当惑の眼《まなこ》を閉じて床の中で凝《じっ》と考えていると、スウと音を偸《ぬす》んで障子を明ける者が有るから、眼を開《あ》いて見ると、先刻《さっき》迄|待憧《まちこが》れて今は忘れているお糸さんだ。窃《そっ》と覗込んで、小声で、「もうお休みなすったの?」といいながら、中へ入って又|窃《そっ》と跡を閉《し》めたのは、十二時過で遠慮するのだったかも知れぬが、私は一寸《ちょっと》妙に思った。
「どうも有難うございました」、とのめるように私の床の側《そば》に坐りながら、「好かったわねえ」、と私と顔を看合わせて微笑《にッこり》した。
今日は風呂日だから、帰ってから湯へ入ったと見えて、目立たぬ程に薄《うッす》りと化粧《けわ》っている。寝衣《ねまき》か何か、袷《あわせ》に白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》を襲《かさ》ねたのを着て、扱《しごき》をグルグル巻にし、上に不断の羽織をはおっている秩序《しどけ》ない姿も艶《なま》めかしくて、此人には調和《うつり》が好《い》い。
「一本頂戴よ」、といいながら、枕元の机の上の巻烟草《まきたばこ》を取ろうとして、袂《たもと》を啣《くわ》えて及腰《およびごし》に手を伸ばす時、仰向《あおむ》きに臥《ね》ている私の眼の前に、雪を欺《あざむ》く二の腕が近々と見えて、懐かしい女の香《か》が芬《ぷん》とする。
「何だかまだ芝居に居るような気がして相済まないけど」、とお糸さんが煙草《たばこ》を吸付けてフウと烟《けむり》を吹きながら、「伯母さんの小言が台詞《せりふ》に聞えたり何かして、如何《どん》なに可笑《おか》しいでしょう」、と微笑《にッこり》した所は、美しいというよりは、仇ッぽくて、男殺しというのは斯ういう人を謂うのかと思われた。
一つ二つ芝居の話をしていると、下のボンボン時計が肝癪《かんしゃく》を起したようにジリジリボンという。一時だ、一時を打っても、お糸さんは一向平気で咽喉《のど》が乾《かわ》くとかいって、私の湯呑で白湯《さゆ》を飲んだり何かして落着いている所は、何だか私が如何《どう》かするのを待ってるようにも思われる。と、母の手紙で一|時《じ》萎《な》えた気が又|振起《ふるいおこ》って、今朝からの今夜こそは即ち今が其時だと思うと、漫心《そぞろごころ》になって、「泊ってかないか?」と私が常談《じょうだん》らしくいうと、「そうですねえ。家《うち》が遠方だから泊ってきましょうか」と、お糸さんも矢張《やっぱり》常談《じょうだん》らしく言ったけれど、もう読めた。卒然《いきなり》手を執《と》って引寄せると、お糸さんは引寄《ひきよせ》られる儘に、私の着ている夜着の上に凭《もた》れ懸って、「如何《どう》するのさ?」と、私の面《かお》を見て笑っている……其時思い掛けず「親が大病だのに……」という事が、鳥影《とりかげ》のように私の頭を掠《かす》めると、急に何とも言えぬ厭な心持になって、私は胸の痛むように顔を顰《ひそ》めたけれど、影になって居たから分らなかったのだろう、お糸さんは執《と》られた手を窃《そっ》と離して、「貴方《あなた》は今夜は余程《よっぽど》如何《どう》かしてらッしゃるよ」と笑っていたが、私が何時迄経《いつまでた》っても眼を瞑《ねむ》っているので、「本当《ほんと》にお眠いのにお邪魔ですわねえ。どれ、もう行って寐ましょう。お休みなさいまし」と、会釈して起上《たちあが》った様子で、「灯火《あかり》を消してきますよ」という声と共に、ふッと火を吹く息の音がした。と、何物か私の面《かお》の上に覆《かぶ》さったようで、暖かな息が微かに頬に触れ、「憎らしいよ!」と笑を含んだ小声が耳元でするより早く、夜着の上に投出していた二の腕を痛《したた》か抓《つね》られた時、私はクラクラとして前後を忘れ、人間の道義|畢竟《ひっきょう》何物ぞと、嗚呼《ああ》父は大病で死にかかって居たのに……
六十
翌朝《あくるあさ》は夙《はや》く発《た》つ積《つもり》だったが、発《た》てなくなった。尾籠《びろう》な事には自《おのずか》ら尾籠《びろう》な法則が有るから、既に一種の関係が成立った以上は、女に多少の手当をして行《い》かなきゃならん――と、さ、私は思わざるを得なかった。見栄坊《みえぼう》だから、金が無くても金の有る風をして、紙入を叩いて遣《や》って了うと、もう汽車賃も残らない。なに、父はまだ危篤というのじゃなし、一時間や二時間|発《た》つのが後れたって仔細は無かろうと、自分で勝手な理窟を附けて、女には内々で朝から金策に歩いたが、出来なかった。昼前に一寸《ちょっと》下宿へ帰ると、留守に国から電報が着いていた。胸を轟かして、狼狽《あわ》てて封を切って見ると、「父危篤|直《すぐ》戻れ」だ。之を読むと私はわなわなと震え出した。卒然《いきなり》下宿を飛出して、血眼《ちまなこ》になって奔走して、辛《かろ》うじて聊《いささ》かの金を手に入れたから、下宿へも帰らず、其足で直ぐ東京を発《た》って、汽車の幾時間を藻掻《もが》き通して、国へ着いたのは其晩八時頃であった。
停車場《ステーション》で車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》って家《うち》へ急ぐ途中も、何だか気が燥《いら》って、何事も落着いて考えられなかったが、片々《きれぎれ》の思想が頭の中で狂い廻《まわ》る中でも、唯息のある中《うち》に一目父に逢いたい逢いたいと其ばかりを祈っていた。時々ふッと既《も》う駄目だろうと思うと、錐《きり》でも刺されたように、急に胸がキリキリと痛む。何とも言えず苦しい。馴染《なじみ》の町々を通っても、何処を如何《どう》車が走るのか分らない。唯車上で身を揉んで、無暗《むやみ》に車夫を急立《せきた》てた。車夫が何だか腹を立てて言ったが、何を言っているのか、分らない。唯|無暗《むやみ》に急立《せきた》てるばかりだ。
漸くの想《おもい》で家《うち》へ着くと、狼狽《あわ》てて車を飛降りて、車賃も払ったか、払わなかったか、卒然《いきなり》門内へ駆込んで格子戸を引明けると、パッと灯火《あかり》が射して、其光の中《うち》に人影がチラチラと見え、家内《うち》は何だか取込んでいて話声が譟然《がやがや》と聞える中で、誰だか作さん――私の名
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