アそ臍《ほぞ》を噬《か》むけれど、追付《おッつ》かない。然るに、私は接近が出来ないで此様《こん》なに煩悶しているのに、隣の俗物は苦もなく日増しに女に親しむ様子で、物を言交《いいかわ》す五分間がいつか十分二十分になる。何だか知らんが、睦まじそうに密々話《ひそひそばなし》をしているような事もある。一度なんぞ女に脊中を叩かれて俗物が莞爾々々《にこにこ》している所を見懸けた。私は気が気でない……
 藻掻いていると、確か女が来てから一週間目だったかと思う、朝からのビショビショ降《ぶ》りが昼過ても未だ止まない事があった。鬱陶敷《うっとうしく》て、気が滅入って、幾ら書いても思う様に書けないから、私はホッとして、頭を抱えて、仰向《あおむき》に倒れて茫然としていたが、
「早く如何《どう》かせんと不好《いかん》!」
 と判然《はっきり》と独言《ひとりごと》をいって起反《おきかえ》った。独言《ひとりごと》は小説に関係した事ではないので、女の事なので。
 すると、余り遠くでない、去迚《さりとて》近くでもない何処かで、ポツンポツンと意気な音《ね》がする。隣の家《うち》で能《よ》く琴を浚《さら》っているが、三味線《さみせん》を弾《ひ》いてた事はない。それに隣にしては近過ぎる。家《うち》には弾《ひ》く者は無い筈だが……と耳を澄していると、軈《やが》て歌い出す声は如何《どう》しても家《うち》だ。例のに違いない。
 私は起上《おきあが》ってブラリと廊下へ出た。

          五十三

 廊下へ出て耳を澄して見たが、三味線《さみせん》は聞えても、矢張《やっぱり》歌が能く聞えない。が、愈《いよいよ》例のに違いないから、私は意を決して裏梯子《うらばしご》を降りて、大廻りをして、窃《こっ》そり台所近くへ来て見ると、誰《たれ》も居ない。皆其隣の家《うち》の者の住居《すまい》にしてある座敷に塊《かた》まっているらしい。好《い》い塩梅《あんばい》だと、私は椽側に佇立《たたず》んで、庭を眺めている風《ふり》で、歌に耳を傾《かたぶ》けていた。
 好《い》い声だ。たッぷりと余裕のある声ではないが、透徹《すきとお》るように清い、何処かに冷たい処のあるような、というと水のようだが、水のように淡くはない、シンミリとした何とも言えぬ旨味《うまみ》のある声だ。力を入れると、凛《りん》と響く。脱《ぬ》くと、スウと細く、果は藕《はす》の糸のようになって、此世を離れて暗い無限へ消えて行きそうになる時の儚《はかな》さ便りなさは、聴いている身も一緒に消えて行きそうで、早く何とかして貰いたいような、もうもう耐《たま》らぬ心持になると、消えかけた声が又急に盛返して来て、遂にパッと明るみへ出たような気丈夫な声になる。好《い》い声だ。節廻しも巧《たくみ》だが、声を転がす処に何とも言えぬ妙味がある。ズッと張揚げた声を急に落して、一転二転三転と急転して、何かを潜って来たように、パッと又|浮上《うきあが》るその面白さは……なぞと生意気をいうけれど、一体|新内《しんない》をやってるのだか、清元《きよもと》をやってるのだか、私は夢中だった。
 俗曲《ぞっきょく》は分らない。が、分らなくても、私は大好きだ。新内でも、清元でも、上手の歌うのを聴いていると、何だか斯う国民の精粋とでもいうような物が、髣髴《ほうふつ》として意気な声や微妙な節廻しの上に顕《あら》われて、吾心の底に潜む何かに触れて、何かが想い出されて、何とも言えぬ懐かしい心持になる。私は之を日本国民の二千年来此生を味うて得た所のものが、間接の思想の形式に由らず、直《ただち》に人の肉声に乗って、無形の儘で人心に来《きた》り逼《せま》るのだとか言って、分明な事を不分明にして其処に深い意味を認めていたから、今お糸さんの歌うのを聴いても、何だか其様《そん》なように思われて、人生の粋《すい》な味や意気な味がお糸さんの声に乗って、私の耳から心に染込《しみこ》んで、生命の髄に触れて、全存在を撼《ゆる》がされるような気がする。
 お糸さんの顔は椽側からは見えないけれど屹度《きっと》少しボッと上気して、薄目を開《あ》いて、恍惚として我か人かの境を迷いつつ、歌っているに違いない。所謂《いわゆる》神来《しんらい》の興が中《うち》に動いて、歌に現《うつつ》を脱《ぬ》かしているのは歌う声に魂の入《い》っているので分る。恐らくもう側《そば》でお神さんや下女の聴いてることも忘れているだろう。お糸さんは最う人間のお糸さんでない。人間のお糸さんは何処へか行って了って、体に俗曲の精霊が宿っている、而《そう》してお糸さんの美音を透《とお》して直接に人間と交渉している。お糸さんは今俗曲の巫女《いちこ》である、薩満《シャマン》である。平生のお糸さんは知らず、此瞬間のお糸さんはお糸さん以上である、いや、人間以上で神に近い人である。
 斯う思うと、時としては斯うして人間を離れて芸術の神境に出入《しゅつにゅう》し得るお糸さんは尋常《ただ》の人間でないように思われる。お糸さんの人と為りは知らないが、歌に於て三味線に於てお糸さんは確に一個の芸術家である、事に寄ると、芸術家と自覚せぬ芸術家である。要するに、俗物でない。
 私も不肖ながら芸術家の端《はし》くれと信ずる。お糸さんの人となりは知らないでも、芸術家の心は唯芸術家のみ能《よ》く之を知る。此下宿に客多しと雖も、能《よ》くお糸さんを知る者は私の外にあるまい。私の心を解し得る者も、お糸さんの外には無い筈である……と思うと、まだ碌に物を言た事もないお糸さんだけれど、何だかお糸さんが生れぬ前《さき》からの友のように思われて、私は……ああ、私は……

          五十四

 私の下宿ではいつも朝飯《あさめし》が済んで下宿人が皆出払った跡で、緩《ゆッ》くり掃除や雑巾掛《ぞうきんがけ》をする事になっていた。お糸さんは奉公人でないから雑巾掛《ぞうきんがけ》には関係しなかったが、掃除だけは手伝っていたので、いつも其時分になると、お掃除致しましょうと言っては私の部屋へ来る。私は内々《ないない》其を心待にしていて、来ると急いで部屋を出て椽側を彷徨《うろつ》く。彷徨《うろつ》きながら、見ぬ振をして横目でチョイチョイ見ていると、お糸さんが赤い襷《たすき》に白地の手拭を姉様冠《あねさまかぶ》りという甲斐々々しい出立《いでたち》で、私の机や本箱へパタパタと払塵《はたき》を掛けている。其を此方《こッち》から見て居ると、お糸さんが何だか斯う私の何かのような気がして、嬉しくなって、斯うした処も悪くないなと思う。
 ところが、お糸さんが三味線《さみせん》を弾《ひ》いた翌朝《あくるあさ》の事であった。万事が常よりも不手廻《ふてまわ》りで、掃除にもいつも来るお糸さんが来ないで、小女《ちび》が代りに来たから、私は不平に思って、如何《どう》したのだと詰《なじ》るようにいうと、今日はお竹どんが病気で寝ているので、受持なんぞの事を言っていられないのだと云う。其なら仕方が無いようなものだけれど、小女《ちび》のは掃除するのじゃなくて、埃《ほこり》をほだてて行くのだから、私が叱り付けてやったら、小女《ちび》は何だか沸々《ぶつぶつ》言って出て行った。
 暫くして用を達《た》しに行《い》こうと思って、ヒョイと私が部屋を出ると、何時《いつ》来たのか、お糸さんがツイ其処で、着物の裾をクルッと捲《まく》った下から、華美《はで》な長襦袢だか腰巻だかを出し掛けて、倒《さか》さになって切々《せっせっ》と雑巾掛《ぞうきんが》けをしていた。私の足音に振向いて、お邪魔様といって、身を開いて通して呉れて、お糸さんは何とも思っていぬ様だったが、私は何だか気の毒らしくて、急いで二階を降りて了った。
 用を達《た》してから出て来て見ると、手水鉢《ちょうずばち》に水が無い。小女《ちび》は居ないかと視廻《みまわ》す向うへお糸さんが、もう雑巾掛《ぞうきんがけ》も済んだのか、バケツを提げてやって来たが、ト見ると、直ぐ気が附いて、
「おや、そうだッけ……只今直ぐ持って参りますよ。」
 と駈出して行って、台所から手桶を提げて来て、
「お待遠様。」
 とザッと水を覆《あ》ける時、何処の部屋から仕掛けたベルだか、帳場で気短に消魂《けたたま》しくチリリリリリンと鳴る。
 お神さんが台所から面《かお》を出して、
「誰も居ないのかい? 十番さんで先刻《さっき》からお呼なさるじゃないか。」
「へい、只今……」
 とお糸さんが矢張《やっぱり》下女並の返事をして、
「お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》……」
 と私の面《かお》を見て微笑《にッこり》しながら、一寸《ちょいと》滑稽《おどけ》た手附をしたが、其儘|所体《しょてい》崩《くず》して駈出して、表梯子《おもてはしご》をトントントンと上《あが》って行く。
 私が手を洗って二階へ上《あが》って見たら、お糸さんは既《も》う裾を卸《おろ》したり、襷《たすき》を外したりして、整然《ちゃん》とした常の姿《なり》になって、突当りの部屋の前で膝を突いて、何か用を聴いていた。
 私は部屋へ帰って来て感服して了った。お糸さんは歌が旨い、三味線も旨い、女ながらも立派な一個の芸術家だ。その芸術家が今日は如何《どう》だろう? お竹が病気なら仕方がないようなものの、全《まる》で下女同様に追使われている。下女同様に追使われて、慣れぬ雑巾掛《ぞうきんがけ》までさせられた上に、無理な小言を言われても、格別厭な面《かお》もせずに、何とか言ったッけ? 然う然う、お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》といって微笑《にっこり》……偉い! 余程《よっぽど》気の練れた者でなければ、如彼《ああ》は行《い》かぬ。これがお竹ででも有ろうものなら、直ぐ見たくでもない面《つら》を膨《ふく》らして、沸々《ぶつぶつ》口小言を言う所だ。それを常談事《じょうだんごと》にして了って、お三どん新参で大狼狽《おおまごつき》といって微笑《にっこり》……偉い!

          五十五

 感服の余り、私は何とかして此自覚せぬ芸術家に敬意を表したいと思ったが、併し奉公人同様に金など包んでは出されない、何でも品物を呈するに限ると、何故だか独りで極《き》めて掛って、惨澹たる苦心の末、雪江《せっこう》一代の智慧を絞り尽して、其翌日の昼過ぎ本郷の一友人を尋ねて、嘘《うそ》八百を陳《なら》べ立て、其細君を誘《そその》かして半襟を二掛見立てて買って来て貰った。値段の処も私にしては一寸《ちょっと》奮《はず》んだ積《つもり》だった。
 早く之をお糸さんに呈して其喜ぶ顔を見たいと、此処らは未来の大文豪も俗物と余り違《ちが》わぬ心持になって、何だか切《しき》りに嬉しがって、莞爾《にこにこ》して下宿へ帰ったのは丁度|夕飯《ゆうはん》時分《じぶん》だったが、火を持って来たのは小女《ちび》、膳を運んで来たのはお竹どんで、お糸さんは笑声が余所の部屋でするけれど、顔も見せない、私は何となく本意《ほい》なかった。
 待侘びて独りで焦《じ》れていると、軈《やが》て目差すお糸さんが膳を下げに来たから、此処ぞと思って、極《きま》りが悪かったが、思切って例の品を呈した。大《おおい》に喜ぶかと思いの外、お糸さんは左《さ》して色を動かさず、軽く礼を言って、一寸《ちょっと》包みを戴いて、膳と一緒に持って行って了った。唯|其切《それぎり》で、何だか余り飽気《あっけ》なかった。
 何時間|経《た》ったか、久《しば》らくすると、部屋の障子がスッと開《あ》いた。振向いて見ると、思いがけずお糸さんが入口に蹲《うずく》まって、両手を突いて、先刻《さっき》の礼を又言ってお辞儀をする。私は何となく嬉しかった。お床を延べましょうかというから、敷《と》って呉れというと、例の通り戸棚から夜具を出す時、昨夜《ゆうべ》も今朝も手に掛けて知っている筈の枕皮《まくらがわ》の汚に始めて気が附いて、明日《あした》洗いましょうという。なに、洗濯屋に出すから好《い》いと言っても、此様《こん》な物を洗うのは雑作《ぞうさ》もないといって聴か
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