チている若い男女を観察して満足して居なければならん。が、若い男を観察したって詰らない。若い男の心持なら、自分でも大抵分る。恋の可能《ポッシビリチイ》を持っている若い女の観察が当面の急務だ。と、こう考え詰めて見ると、私の人生研究は詰り若い女の研究に帰着する。
で、帰着点は分ったが、矢張《やッぱり》実行が困難だ。若い女を研究するといって、往来に衝立《つッた》っていて通る女に一々触れもされん。勢い私の手の届く所から研究に着手する外はない。が、私の手の届く所だと、まず下宿屋のお神さんや下女になる。下宿屋のお神さんは大抵年を喰ってる。若いお神さんはうッかり触れると危険だ。剰《あま》す所は下女だが、下女ではどうも喰い足りない。忙がしそうにしている所を捉《つか》まえて、一つ二つ物を言うと、もう何番さんかでお手が鳴る。ヘーイと尻上りに大きな声で返事をして、跡をも閉めずにドタドタと座敷を駈出して行くのでは、余り没趣味だ。下女が没趣味だとすると、私の身分ではもう売女《ばいじょ》に触れて研究する外はないが、これも大店《おおみせ》は金が掛り過るから、小店で満足しなければならん。が、小店だと、相手が越後の国|蒲原郡何村《かんばらごおりなにむら》の産の鼻ひしゃげか何かで、私等《わしら》が国さでと、未だ国訛《くになまり》が取れないのになる。往々にして下女にも劣る。尤も是は少し他《た》に用事も有ったから、其用事を兼ねて私は絶えず触れていたが、どうしても、どう考えて見ても、是では喰い足らん。どうも素人《しろうと》の面白い女に撞着《ぶつか》って見たい。今なら直ぐ女学生という所だが、其時分は其様《そん》な者に容易に接近されなかったから、私は非常に煩悶していた。
馬鹿なッ! 其様《そん》な事を言って、私は女房が欲しくなったのだ。
五十
人生の研究というような高尚な事でも、私なぞの手に掛ると、詰り若い女に撞着《ぶつか》りたいなぞという愚劣な事になって了う。普通の人なら青年の中《うち》は愚を意識して随分愚な真似もしようけれど、私は其を意識しなかった。矢張《やっぱり》私共でなければ出来ぬ高尚な事のように思って、切《しきり》に若い女に撞着《ぶつか》りたがっている中《うち》に、望む所の若い女が遂に向うから来て撞着《ぶつか》った。
それは小石川の伝通院《でんづういん》脇の下宿に居る時であった。此下宿は体裁は余り好くなかったが、それでも所謂《いわゆる》高等下宿で、学生は大学生が一人だったか、二人だったか、居たかと思う。余《あと》は皆小官吏や下級の会社員ばかりで、皆朝から弁当を持って出懸けて、午後は四時過でなければ帰って来ぬ連中《れんじゅう》だから昼の中《うち》は家内が寂然《しん》とする程静かだった。
私は此家《このうち》で一番上等にしてある二階の八畳の部屋を占領していた。なに、一番上等といっても、元来下宿屋に建てた家《うち》だから、建前は粗末なもので、動《やや》もすると障子が乾反《ひぞ》って開閉《あけたて》に困難するような安普請《やすぶしん》ではあったが、形《かた》の如く床の間もあって、年中|鉄舟先生《てっしゅうせんせい》やら誰やらの半折物《はんせつもの》が掛けてあって、花活《はないけ》に花の絶えたことがない……というと結構らしいが、其代り真夏にも寒菊が活《いけ》てあったりする。造花なのだ。これは他《た》の部屋も大同小異だったが、唯《たッ》た一つ他《た》の部屋にはなくて、此部屋ばかりにある、謂わば此部屋の特色を成す物があった。それは姿見で、唐草模様の浮出した紫檀贋《したんまが》いの縁の、対《むか》うと四角な面《かお》も長方形になる、勧工場《かんこうば》仕込の安物ではあったけれど、兎も角も是が上等室の標象《シムボール》として恭《うやうや》しく床の間に据えてあった。下にもまだ八畳が一間《ひとま》あったが、其処には姿見がなかった。同じような部屋でありながら、間代が其処より此処の方が三割方高かったのは、半分は此姿見の為だったかとも思われる。
部屋は此通り余り好くはなかったが、取得《とりえ》は南向で、冬暖かで夏涼しかった。其に一番|尽頭《はずれ》の部屋で階子段《はしごだん》にも遠かったから、他《た》の客が通り掛りに横目で部屋の中を睨《にら》んで行く憂いはなかった。
も一つ好《い》い事は――部屋の事ではないが、此家《このうち》は下宿料の取立が寛大だった。亭主は居るか居ないか分らんような人で、お神さん一人で繰廻《くりまわ》しているようだったが、快活で、腹の大きい人で、少し居馴染《いなじ》んだ者には、一月二月下宿料が滞《とどこお》っても、宜しゅうございます、御都合の好《い》い時で、といってビリビリしない。収入の不定な私には是が何よりだったから、私は二年越|此家《このうち》に下宿して居た。
或日朝から出て昼過に帰ると、帳場に看慣《みな》れぬ女が居る。後向《うしろむき》だったから、顔は分らなかったが、根下《ねさが》りの銀杏返《いちょうがえ》しで、黒縮緬《くろちりめん》だか何だかの小さな紋の附いた羽織を着て、ベタリと坐ってる後姿が何となく好かったが、私がお神さんと物を言ってる間、其女は振向いても見ないで、黙って彼方《あちら》向いて烟草《たばこ》を喫《す》っていた。
部屋へ来る跡から下女が火を持って来たから、捉《つか》まえて聞くと、今朝殆ど私と入違《いりちが》いに尋ねて来たのだそうで、何でもお神さんの身寄だとかで、車で手荷物なぞも持って来たから、地方の人らしいと云う。唯|其切《それぎり》で、下女の事だから要領を得ない。
「如何《どん》な女だい?」
「あら、今御覧なすったじゃ有りませんか?」
「後向《うしろむ》きで分らなかった。」
「別品《べっぴん》ですよ」、といって下女は莞爾々々《にこにこ》している。
「丸顔かい?」
「いいえ、細面《ほそおもて》でね……」
「色は如何《どん》なだい? 白いかい?」
下女は黙って私の面《かお》を見ていたが、
「大層お気が揉めますのね。何なら、もう一遍下へ行って見ていらしッたら……」
誰にでも翻弄《ほんろう》されると、途方に暮れる私だから、拠《よん》どころなく苦笑《にやり》として黙って了うと、下女は高笑《たかわらい》して出て行って了った。
五十一
軈《やが》て夕飯時《ゆうめしどき》になった。部屋々々へ膳を運ぶ忙がしそうな足音が廊下に轟いて、何番さんがお急ぎですよ、なぞと二階から金切声で聒《かしま》しく喚《わめ》く中を、バタバタと急足《いそぎあし》に二人ばかり来る女の足音が私の部屋の前で止ると、
「此方《こッち》が一番さんで、夫《それ》から二番さん三番さんと順になるンですから何卒《どうぞ》……」
というのは聞慣れた小女《ちび》の声で、然う言棄てて例の通り端手《はした》なくバタバタと引返《ひッかえ》して行く。
と、跡に残った一人が障子の外に蹲《うずく》まった気配《けはい》で、スルスルと障子が開《あ》いたから、見ると、彼女《あのおんな》だ、彼女《あのおんな》に違いない。私は急いで余所を向いて了ったから、能《よ》くは、分らなかったが、何でも下女の話の通り細面《ほそおもて》で、蒼白い、淋しい面相《かおだち》の、好《い》い女だ……と思った。年頃は二十五六……それとも七か……いや、八か……女の歳は私には薩張《さっぱり》分らない。もう羽織はなしで、紬《つむぎ》だか銘仙だか、夫とも更《もッ》と好《い》い物だか、其も薩張《さっぱり》分らなかったが、何《なに》しても半襟の掛った柔か物で、前垂《まえだれ》を締めて居たようだった。障子を明けると、上目でチラと私の面《かお》を見て、一寸《ちょっと》手を突いて辞儀をしてから、障子の影の膳を取上て、臆した体もなくスルスルと内へ入って来て、「どうもお待せ申しまして」、といいながら、狼狽《まごまご》している私の前へ据えた手先を見ると、華奢《きゃしゃ》な蒼白い手で、薬指に燦《きら》と光っていたのは本物のゴールド、リングと見た。正可《まさか》鍍金《めッき》じゃ有るまい、飯櫃《めしびつ》も運び込んでから、
「お湯はございますか知ら。」
と火鉢の薬鑵《やかん》を一寸《ちょっと》取って見て、
「まだ御座いますようですね。じゃ、お後《あと》にしましょう。御緩《ごゆっ》くりと……」
と会釈して、スッと起《た》った所を見ると、スラリとした後姿《うしろつき》だ。ああ、好《い》い風《ふう》だ、と思っている中《うち》に、もう部屋を出て了って、一寸《ちょっと》小腰を屈《かが》めて、跡を閉めて、バタバタと廊下を行く。
別段|異《かわ》った事もない。小娘でないから、少しは物慣れた処もあったろうが、其は当然《あたりまえ》だ。風《ふう》に一寸《ちょっと》垢脱《あかぬけ》のした処が有ったかも知れぬが、夫《それ》とても浮気男の眼を惹《ひ》く位《ぐらい》の価値で大した女ではなかったのに、私は非常に感服して了った。尤も私の不断接している女は、厭にお澄しだったり、厭に馴々《なれなれ》しかったりして、一見して如何にも安ッぽい女ばかりだったから、然ういうのを看慣《みな》れた眼には少しは異《ちが》って見えたには違いない。
何物だろうと考えて見たが、分らない。或は黒人《くろうと》上りかとも思ってみたが、下町育ちは山の手の人とは違う。此処のお神さんも下町育ちだと云う。そういえば、何処か様子に似た処もある。或は下町育ちかも知れぬとも思った。
素性は分らないが、兎に角面白そうな女だから、此様《こん》なのを味わったら、女の真味が分るかも知れん。今に膳を下げに来たら、今度こそは勇気を振起して物を言って見よう、私のように黙って居ては、何時迄《いつまで》経《た》っても接近は出来ん、なぞと思っていると、隣室で女の笑い声がする。下女の声ではない。今のに違いない。隣の俗物め、もう捉《つか》まえて戯言《じょうだん》でも言ってると見える。
五十二
其晩膳を下げに来るかと心待に待っていたら、其には下女が来て、女は顔を見せなかった。翌朝《よくあさ》は女が膳を運んで来たが、卒《いざ》となると何となく気怯《きおく》れがして、今は忙《いそが》しそうだから、昼の手隙《てすき》の時にしよう、という気になる。で、言うべき文句迄|拵《こしら》えて、掻くようにして昼を待っていると、昼が来て、成程手隙《てすき》だから、他《ほか》の者は遊んでいて小女《ちび》が膳を運んで来る。
三四日|経《た》った。いつも女の助《す》けるのは朝晩の忙がしい時だけで、昼は顔も出さない。考えて見ると、奉公人でないから其筈だが、私は失望した。顔は度々合せるから漸く分ったが、能《よ》く見ると、雀斑《そばかす》が有って、生際《はえぎわ》に少し難が有る。髪も更少《もすこ》し濃かったらと思われたが、併し何となく締りのあるキリッとした面相《かおだち》で、私は矢張《やっぱり》好《い》いと思った。名はお糸といってお神さんの姪だとか云う。皆下女からの復聞《またぎき》だ。
何とかして一日も早く接近したいが、如何《どう》も顔を合せると、物が言えなくなる。昼間廊下で行逢った時など、女は小腰を屈《かが》めて会釈するような、せんような、曖昧な態度で摺脱《すりぬ》けて行く。其様《そん》な時に接近したがってる事は色にも出さずに、ヒョイと、軽く、些《ちッ》と話に入らッしゃい、とか何とか言ったら、最終《しまい》には来るようになるかも知れんとは思うけれど、然う思うばかりで、私の口は重たくて、ヒョイと、軽く、其様《そん》な事が言えない。
度々|面《かお》を合せても物を言わんから、段々何だか妙に隔てが出来て来て、改めて物を言うのが最う変になって来る。此分だと、余程《よッぽど》何か変った事が、例えば、火事とか大地震とかがあって、人心の常軌を逸する場合でないと、隔ての関を破って接近されなくなりそうだ。ああ、初て部屋へ来た時、何故私は物を言わなかったろうと、千悔万悔《せんかいばんかい》、それ
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