Qく此|怕《おそ》ろしい線を踏越した。踏越してから酔が醒めると何とも言えぬ厭な心持になったから、又酒の力を藉《か》りて強いて纔《わずか》に其不愉快を忘れていた。此様《こん》な厭な想いをして迄も性慾を満足させたかったのだ。是は相手が正当でなかったから、即ち売女《ばいじょ》であったからかというに、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人は大抵皆然うだと云う。殊に婦人が然うだという。何故だろう?
之と縁のある事で今一つ分らぬ事がある。人は皆|隠《かく》れてエデンの果《このみ》を食《くら》って、人前では是を語ることさえ恥《はず》る。私の様に斯うして之を筆にして憚らぬのは余程力むから出来るのだ。何故だろう? 人に言われんような事なら、為《せ》んが好《い》いじゃないか? 敢てするなら、誰《たれ》の前も憚らず言うが好《い》いじゃないか? 敢てしながら恥《はず》るとは矛盾でないか? 矛盾だけれど、矛盾と思う者も無いではないか? 如何《どう》いう訳だ?
之を霊肉の衝突というか? しからば、霊肉一致したら、如何《どう》なる? 男女相知るのを怕《おそ》ろしいとも恥かしいとも思わなくなるのか? 畜生《ちくしょう》と同じ心持になるのか?
トルストイは北方の哲人だと云う。此哲人は如何《どん》な事を言っている。クロイツェル、ソナタの跋に、理想の完全に実行し得べきは真の理想でない。完全に実行し得られねばこそ理想だ。不犯《ふぼん》は基督教《キリストきょう》の理想である。故に完全に実行の出来ぬは止むを得ぬ、唯|基督教徒《キリストきょうと》は之を理想として終生追求すべきである、と言って、世間の夫婦には成るべく兄妹《けいまい》の如く暮らせと勧めている。
何の事だ? 些《ちッ》とも分らん。完全を求めて得られんなら、悶死すべきでないか? 不犯《ふぼん》が理想で、女房を貰って、子を生ませていたら、普通の堕落に輪を掛た堕落だ。加之《しか》も一旦貰った女房は去るなと言うでないか? 女房を持つのが堕落なら、何故一念発起して赤の他人になッ了《ちま》えといわぬ。一生離れるなとは如何《どう》いう理由《わけ》だ? 分らんじゃないか?
今食う米が無くて、ひもじい腹を抱《かかえ》て考え込む私達だ。そんな伊勢屋《いせや》の隠居が心学に凝り固まったような、そんな暢気《のんき》な事を言って生きちゃいられん!
四十一
其後《そのご》間もなく雪江さんのお婿さんが極《きま》った。お婿さんが極《きま》ると、私は何だか雪江さんに欺《あざむ》かれたような心持がして、口惜《くや》しくて耐《たま》らなかったから、国では大不承知であったけれど、口実を設けて体よく小狐《おぎつね》の家《うち》を出て下宿して了った。
馬鹿な事には下宿してから、雪江さんが万一《ひょッと》鬱《ふさ》いでいぬかと思って、態々《わざわざ》様子を見に行った事が二三度ある。が、雪江さんはいつも一向|鬱《ふさ》いで居なかった。反ッてお婿さんが極《きま》って怡々《いそいそ》しているようだった。それで私も愈《いよいよ》忌々《いまいま》しくなって、もう余り小狐へも足踏《あしぶみ》せぬ中《うち》に、伯父さんが去る地方の郡長に転じて、家族を引纏めて赴任して了ったので、私も終《つい》に雪江さんの事を忘れて了った。これでお終局《しまい》だ。
余り平凡だ下らない。こんなのは単純な性慾の発動というもので、恋ではない、恋はも少《ちッ》と高尚な精神的の物だと、高尚な精神的の人は言うかも知れん。然うかも知れん。唯私のような平凡な者の恋はいつも斯うだ。先ず無意識或は有意識《ゆういしき》に性慾が動いて満足を求めるから、理性や趣味性が動いて其相手を定めて、始めて其処に恋が成立する。初から性慾の動かぬ場合に恋はない。異性でも親兄弟に恋をせぬのは其為だ。青年の時分には、性慾が猛烈に動くから、往々理性や趣味性の手を待たんで、自分と盲動して撞着《ぶつか》った者を直《すぐ》相手にする。私の雪江さんに於けるが、即ち殆ど其だ。私共の恋の本体はいつも性慾だ。性慾は高尚な物ではない、が、下劣な物とも思えん。中性だ、インヂフェレントの物だ。私共の恋の下劣に見えるのは、下劣な人格が反映するので、本体の性慾が下劣であるのではない。
で、私の性慾は雪江さんに恋せぬ前から動いていた。から、些《ちッ》とも不思議でも何でもないが、雪江さんという相手を失った後《のち》も、私の恋は依然として胸に残っていた。唯相手のない恋で、相手を失って彷徨《うろうろ》している恋で、其本体は矢張《やッぱ》り満足を求めて得ぬ性慾だ。露骨に言って了えば、誠に愛想《あいそ》の尽きた話だが、此猛烈な性慾の満足を求むるのは、其時分の私の生存の目的の――全部とはいわぬが、過半であった。
これは私ばかりでない、私の友人は大抵皆然うであったから、皆此頃からポツポツ所謂《いわゆる》「遊び」を始めた。私も若し学資に余裕が有ったら、矢張《やッぱり》「遊」んだかも知れん。唯学資に余裕がなかったのと、神経質で思切った乱暴が出来なかったのとで、遊びたくも遊び得なかった。
友人達は盛《さかん》に「遊」ぶ、乱暴に無分別に「遊」ぶ。其を観ていると、羨《うらや》ましい。が、弱い性質の癖に極めて負惜しみだったから、私は一向|羨《うらや》ましそうな顔もしなかった。年長の友人が誘っても私が応ぜぬので、調戯《からかい》に、私は一人で堕落して居るのだろうというような事を言った。恥かしい次第だが、推測通りであったので、私は赫《かっ》となった。血相《けっそう》を変えて、激論を始めて、果は殴合《なぐりあい》までして、遂に其友人とは絶交して了った。
斯うして友人と喧嘩迄して見れば、意地としても最う「遊」ばれない。で、不本意ながら謹直家《きんちょくか》になって、而《そう》して何ともえたいの知れぬ、謂《いわ》れのない煩悶に囚《とら》われていた。
四十二
ああ、今日は又頭がふらふらする。此様《こん》な日にゃ碌な物は書けまいが、一日抜くも残念だ。向鉢巻《むこうはちまき》でやッつけろ!
で、私は性慾の満足を求めても得られなかったので、煩悶していた。何となく世の中が悲観されてならん。友人等は「遊」ぶ時には大《おおい》に「遊」んで、勉強する時には大《おおい》に勉強して、何の苦もなく、面白そうに、元気よく日を送っている。それを観ていると、私は癪《しゃく》に触って耐《たま》らない。私の煩悶して苦むのは何となく友人等の所為《せい》のように思われる。で、責めてもの腹慰《はらい》せに、薄志の弱行のと口を極めて友人等の公然の堕落を罵《ののし》って、而《そう》して私は独り超然として、内々《ないない》で堕落していた。若し友人等の堕落が陽性なら、私の堕落は陰性だった。友人等の堕落が露骨で、率直で、男らしいなら、私の堕落は……ああ、何と言おう? 人間の言葉で言いようがない。私は畜生《ちくしょう》だった……
が、こっそり一人で堕落するのは余り没趣味で、どうも夫《それ》では趣味性が満足せぬ。どうも矢張《やっぱり》異性の相手が欲しい。が、其相手は一寸《ちょっと》得られぬので、止むを得ず当分文学で其不足を補っていた。文学ならば人聴《ひとぎき》も好《い》い。これなら左程|銭《ぜに》も入《い》らぬ。私は文学を女の代りにして、文学を以って堕落を潤色《じゅんしょく》していたのだ。
私の謂う文学は無論美文学の事だ、殊に小説だ。小説は一体|如何《どう》いうものだか、知らん、唯私の眼に映ずる小説は人間の堕落を潤色《じゅんしょく》するものだ。通人の話に、道楽の初は唯|色《いろ》を漁《ぎょ》する、膏肓《こうこう》に入《い》ると、段々贅沢になって、唯|色《いろ》を漁《ぎょ》するのでは面白くなくなる、惚れたとか腫《は》れたとか、情合《じょうあい》で異性と絡《から》んで、唯の漁色《ぎょしょく》に趣《おもむき》を添えたくなると云う。其処だ、其処が即ち文学の需要の起る所以《ゆえん》だ。少くも私は然うであった。で、此目的で、最初は小狐《おぎつね》に居た頃喰付いた人情本を引続き耽読《たんどく》してみたが、数を累《かさ》ねると、段々贅沢になって、もう人情本も鼻に附く。同じ性慾の発展の描写でも、も少し趣味のある描写を味わってみたい。そこで、種々《いろいろ》と小説本を渉猟《しょうりょう》して、終《つい》に当代の大家の作に及んで見ると、流石《さすが》は明治の小説家だ、性慾の発展の描写が巧《たくみ》に人生観などで潤色《じゅんしょく》されてあって、趣味がある、面白い。斯ういう順序で私の想像で堕落する病《やまい》は益《ますます》膏肓《こうこう》に入《い》って、終《つい》には西洋へ迄手を出して、ヂッケンスだ、サッカレーだ、ゾラだ、ユゴーだ、ツルゲーネフだ、トルストイだ、という人達の手を藉《か》りて、人並にしていれば、中性のインヂフェレントの性慾を無理に不自然な病的の物にして、クラフトエービングやフォレールの著書中に散見するような色情狂に想像で成済《なりす》まして、而《そう》して独り高尚がっていた。
いや、独り高尚がっていたのでない。それには同気相求めて友が幾人《いくたり》も出来た。同県人で予備門から後《のち》文科へ入《い》った男が有ったが、私は殊に其感化を受けた。ああ、皆自分が悪かったので、人を怨んでは済まないが、私は今でも此男に逢うと、何とも言えぬ厭な心持になる。儘になるなら刺違《さしちが》えて死で了いたく思う事もある。
四十三
私が感化を受けた友というのは私より一つ二つ年上であった。文学が専門だから、文学書は私より余計読でいたという丈で、何でもない事だが、それを私は大層偉いように思っていた。まだファウストを読まぬ時、ファウストの話を聴《きか》される。なに、友は愚にも附《つか》ん事を言っているのだが、其愚にも附かん事を、人生だ、智慾だ、煩悶だ、肉だ、堕落だ、解脱《げだつ》だ、というような意味の有り気な言葉で勿体を附て話されると、何だか難有《ありがた》くなって来て、之を語る友は偉いと思った。こんな馬鹿気た話はない。友は唯私より少し早くファウストという古本《ふるほん》を読《よん》だ丈の事だ。読んで分った所で、ファウストが何程《どれほど》の物だ? 技巧の妙を除いたら、果してどれ程の価値がある? 況《いわん》や友はあやふやな語学の力で分らん処を飛ばし飛ばし読んだのだ。読んで幼稚な頭で面白いと感じた丈だ、それも聞怯《ききおじ》して、従頭《てんから》面白いに極《き》めて掛って、半分は雷同で面白いと感じた丈だ。読んで十分に味わい得た所で、どうせ人間の作った物だ、左程の物でもあるまいに、それを此様《こん》な読方をして、難有《ありがた》がって、偶《たまたま》之を読まぬ者を何程《どれほど》劣等の人間かのように見下《みくだ》し、得意になって語る友も友なら、其を聴いて敬服する私も私だ。心ある人から観たら、嘸《さ》ぞ苦々しく思われたろう。
此友から私は文学の難有《ありがた》い訳を種々《いろいろ》と説き聴かされた。今ではもう大抵忘れて了ったけれど、何でも文学は真理に新しい形を賦《ふ》して其生命を直接に具体的に再現するものだ、とか聴かされて、感服した。自然の真相は普通人に分らぬ、詩人が其主観を透《とお》して描いて示すに及んで、始めて普通人にも朧気《おぼろげ》に分って人間の宝となる、とか聴かされて、又感服した。恋には人間の真髄が動く、とか聴かされて、又感服した。其他《そのた》まだ種々《いろいろ》聴かされて一々感服したが、此様《こん》な事は皆|愚言《たわごと》だ、世迷言《よまいごと》だ。空想に生命を託して人生を傍観するばかりで、古本と首引《くびぴき》して瞑想するばかりで、人生に生命を託して人生と共に浮沈上下《ふちんじょうか》せんでも、人生の活機に触れんでも、活眼を以て活勢を機微の間《あいだ》に察し得んでも、如何《どう》かして人生が分るものとしても、友のいうような其様《そ
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