sもが》くけれど、生憎《あいにく》口実が看附《みつ》からない。うずうずして独りで焦心《じれ》ていると、ふと椽側にバタリバタリと足音がする。其足音が玄関へ来る。確かに雪江さんだ。部屋の前を通越《とおりこ》して台所へ行くか、それとも万一《ひょっと》障子が開《あ》くかと、成行《なりゆき》を待つ間《ま》の一|分《ぷん》に心の臓を縮めていると、驚破《すわ》、障子がガタガタと……開《あ》きかけて、グッと支《つか》えたのを其儘にして、雪江さんが隙間から覗込みながら、
「勉強?」
 と一寸《ちょっと》首を傾げた。これが何を聞く時でも雪江さんの為《す》る癖で、看慣《みな》れては居るけれど、私は常《いつ》も可愛らしいと思う。不断着だけれど、荒い縞の着物に飛白《かすり》の羽織を着て、華美《はで》な帯を締めて、障子に掴《つか》まって斜《はす》に立った姿も何となく目に留《と》まる。
 ああ求むる者に与えられたのだ。神よ……といいたいような気になって、無論|莞爾々々《にこにこ》となって、
「いいえ……まあ、お入ンなさい。」
「じゃ、私《あたし》話して入《い》くわ。奥は一人で淋しいから。」
 珍客々々! 之を優待せん法はない。よ、よ、と雪江さんが掛声をして障子を明けようとするけれど、開《あ》かないのを、私は飛んで行って力任せにウンと引開けた。何だか領元《えりもと》からぞくぞくする程嬉しい。
 生憎《あいにく》と火鉢は私の部屋には無かったけれど、今迄敷いていた赤ゲットを、四ツに畳んだのを中央《まんなか》へ持出して、其でも裏反《うらがえ》しにして勧めると、遠慮するのか、それとも小汚《こぎたな》いと思ったのか、敷いて呉れないから、私は黙って部屋を飛出した。雪江さんは後《あと》で定めて吃驚《びっくり》していたろうが、私は雪江さんの部屋へ座布団を取りに行ったので、是だけは我ながら一生の出来だったと思う。
 席が出来ると、雪江さんが、
「貴方《あなた》、御飯が食べられて? 私《あたし》何ぼ何でも喰べられなかったわ、余《あんま》り先刻《さッき》詰込んだもんだから。」
 と微笑《にッこり》する。何時《いつ》見ても奇麗な歯並《はなみ》だ。
 私も矢張《やっぱ》り莞爾《にっこり》して、
「私も食べられませんでした……」
 大嘘《おおうそ》! 実は平生《いつも》の通り五杯喰べたので。
 雪江さんは国産れでも東京育ちだから、
「……にもお芋があって?」
「有りますとも。」
「じゃ、帰っても不自由はないわねえ。」
 と又|微笑《にっこり》する。
 私も高笑いをした。雪江さんの言草が可笑《おかし》かったばかりじゃない。実は胸に余る嬉しさやら、何やら角《か》やら取交《とりま》ぜて高笑いしたのだ。
 それから国の話になって、国の女学生は如何《どん》な風をしているの、英語は何位《どのくらい》の程度だの、洋楽は流行《はや》るかのと、雪江さんは其様《そん》な事ばかり気にして聞く。私は大事の用を控えているのだ。其処《それどころ》じゃないけれど、仕方がないから相手になっていると、チョッ、また松の畜生《ちくしょう》が邪魔に来やがった。

          三十八

 松が来て私はうんざりして了ったが、雪江さんは反《かえ》って差向《さしむかい》の時よりはずみ出して、果は松の方へ膝を向けて了って、松ばかりを相手に話をする。私は居るか居ないか分らんようになって了った。初は少からず不平に思ったが、しかし雪江さんを観ているのには、反て此方が都合が好《い》い。で、母屋《おもや》を貸切って、庇《ひさし》で満足して、雪江さんの白いふッくりした面《かお》を飽かず眺めて、二人の話を聴いていると、松も能《よ》く饒舌《しゃべ》るが、雪江さんも中々負ていない。話は詰らん事ばかりで、今度開店した小間物屋は安売だけれど品《しな》が悪いの、お湯屋《ゆうや》のお神さんのお腹がまた大きくなって来月が臨月だの、八百屋の猫が児を五疋生んで二疋喰べて了ったそうだのと、要するに愚にも附かん話ばかりだが、しかし雪江さんの様子が好《い》い。物を言う時には絶えず首を揺《うご》かす、其度にリボンが飄々《ひらひら》と一緒に揺《うご》く。時々は手真似もする。今朝|結《い》った束髪がもう大分乱れて、後毛《おくれげ》が頬を撫《な》でるのを蒼蠅《うるさ》そうに掻上《かきあ》げる手附も好《い》い。其様《そん》な時には彼《あれ》は友禅メリンスというものだか、縮緬《ちりめん》だか、私には分らないが、何でも赤い模様や黄ろい形《かた》が雑然《ごちゃごちゃ》と附いた華美《はで》な襦袢《じゅばん》の袖口から、少し紅味《あかみ》を帯びた、白い、滑《すべっ》こそうな、柔かそうな腕が、時とすると二の腕まで露《あら》われて、も少し持上《もちゃ》げたら腋の下が見えそうだと、気を揉んでいる中《うち》に、又|旧《もと》の位置に戻って了う。雪江さんは処女《むすめ》だけれど、乳の処がふッくりと持上っている。大方乳首なんぞは薄赤くなってるばかりで、有るか無いか分るまい……なぞと思いながら、雪江さんの面《かお》ばかり見ていると、いつしか私は現実を離れて、恍惚《うっとり》となって、雪江さんが何だか私の……妻《さい》でもない、情人《ラヴ》でもない……何だか斯う其様《そん》なような者に思われて、兎に角私の物のように思われて、今は斯うして松という他人を交《ま》ぜて話をしているけれど、今に時刻が来れば、二人一緒に斯う奥まった座敷へ行く。と、もう其処に床が敷《と》ってある。夜具も郡内《ぐんない》か何《なに》かだ。私が着物を脱ぐと、雪江さんが後《うしろ》からフワリと寝衣《ねまき》を着せて呉れる。今晩は寒いわねえとか雪江さんがいう。む、む、寒いなあとか私も言って、急いで帯をグルグルと巻いて床へ潜り込む。雪江さんが私の脱棄《ぬぎすて》を畳んでいる。其様《そん》な事は好加減《いいかげん》にして早く来て寝なと私がいう。あいといって雪江さんが私の面《かお》を見て微笑《にッこり》する……
「ねえ、古屋さん、然うだわねえ?」
 と雪江さんが此方《こっち》を向いたので、私は吃驚《びっくり》して眼の覚めたような心持になった。何でも何か私の同意を求めているのに違いないから、何だか仔細は分らないけれど、
「そうですとも……」
 と跋《ばつ》を合わせる。
「そら、御覧な。」
 と雪江さんは又松の方を向いて、又話に夢中になる。
 私はホッと溜息をする。今の続きを其儘にして了うのは惜しい。もう一度幻想でも何でも構わんから、もう一度、今の続きを考えて見たいと思うけれど、もう気が散って其心持になれない。仕方がないから、黙って話を聴いている中《うち》に、又いつしか恍惚《うッとり》と腑が脱けたようになって、雪江さんの面《かお》が右を向けば、私の面《かお》も右を向く。雪江さんの面《かお》が左を向けば、私の面《かお》も左を向く。上を向けば、上を向く、下を向けば下を向く……

          三十九

 パタリと話が休《や》んだ。雪江さんも黙って了う、松も黙って了う。何処でか遠方で犬の啼声が聞える。所謂《いわゆる》天使が通ったのだ。雪江さんは欠《あく》びをしながら、序《ついで》に伸《のび》もして、
「もう何時だろう?」
「まだ早いです、まだ……」
 と私が狼狽《あわ》てて無理に早い事にして了う心を松は察しないで、
「もう九時過ぎたでしょうよ。」
「阿父《とう》さんも阿母《かあ》さんも遅いのねえ。何を為《し》てるンだろう?」
 と又|欠《あく》びをして、「ああああ、古屋さんの勉強の邪魔しちゃッた。私《あたし》もう奥へ行《い》くわ。」
 私が些《ちッ》とも邪魔な事はないといって止めたけれど、最う斯うなっては留《とま》らない、雪江さんは出て行って了う。松も出て行《い》く。私一人になって了った。詰らない……
 ふと雪江さんの座蒲団が眼に入《い》る……之れを見ると、何だか捜していた物が看附《みつか》ったような気がして、卒然《いきなり》引浚《ひっさら》って、急いで起上《たちあが》って雪江さんの跡を追った。
 茶の間の先の暗い処で雪江さんに追付《おッつ》いた。
「なあに? ……」
 と雪江さんの吃驚《びッくり》したような声がして、大方《おおかた》振向いたのだろう、面《かお》の輪廓だけが微白《ほのじろ》く暗中《あんちゅう》に見えた。
「貴嬢《あなた》の座布団を持って来たのです。」
「あ、そうだッけ。忘れちゃッた。爰《ここ》へ頂戴《ちょうだい》」、と手を出したようだった。
 私は狼狽《あわ》てて座布団を後《うしろ》へ匿《かく》して、
「好《い》いです、私が持ってくから。」
「あら、何故?」
「何故でも……好《い》いです……」
「そう……」
 と何だか変に思った様子だったが、雪江さんは又暗中を動き出す。暗黒《くらやみ》で能《よ》くは分らないけれど、其姿が見えるようだ。私も跡から探足《さぐりあし》で行く。何だか気が焦《あせ》る。今だ、今だ、と頭の何処かで喚《わめ》く声がする。如何《どう》か為《し》なきゃならんような気がして、むずむずするけれど、何だか可怕《こわ》くて如何《どう》も出来ない。咽喉《のど》が乾《かわ》いて引付《ひッつ》きそうで、思わずグビリと堅唾《かたず》を呑んだ……と、段々明るくなって、雪江さんの姿が瞭然《はっきり》明るみに浮出す。もう雪江さんの部屋の前へ来て、雪江さんの姿は衝《つい》と障子の中《うち》へ入って了った。
 其を見ると、私は萎靡《がっかり》した。惜しいような気のする一方で、何故だか、まず好かったと安心した気味もあった。で、続いて中へ入って、持って来た座布団を机の前に敷いて、其処を退《の》くと、雪江さんは礼を言いながら、入替《いりか》わって机の前に坐って、
「遊《あす》んでらっしゃいな。」
 と私の面《かお》を瞻上《みあ》げた。ええとか、何とかいって踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《もじもじ》している私の姿を、雪江さんはジロジロ視ていたが、
「まあ、貴方《あなた》は此地《こっち》へ来てから、余程《よっぽど》大きくなったのねえ。今じゃ私《あたし》とは屹度《きっと》一尺から違ってよ。」
「まさか……」
「あら……屹度《きっと》違うわ。一寸《ちょッと》然うしてらッしゃいよ……」
 といいながら、衝《つい》と起《た》ったから、何を為《す》るのかと思ったら、ツカツカと私の前へ来て直《ひた》と向合った。前髪が顋《あご》に触れそうだ。紛《ぷん》と好《い》い匂《におい》が鼻を衝く。
「ね、ほら、一尺は違うでしょう?」と愛度気《あどけ》ない白い面《かお》が何気なく下から瞻上《みあ》げる。
 私はわなわなと震い出した。目が見えなくなった。胸の鼓動は脳へまで響く。息が逸《はず》んで、足が竦《すく》んで、もう凝《じッ》として居られない。抱付くか、逃出すか、二つ一つだ。で、私は後《のち》の方針を執《と》って、物をも言わず卒然《いきなり》雪江さんの部屋を逃出して了った……

          四十

 何故|彼時《あのとき》私は雪江さんの部屋を逃出したのだというと、非常に怕《おそ》ろしかったからだ。何が怕《おそ》ろしかったのか分らないが、唯何がなしに非常に怕《おそ》ろしかったのだ。
 生死の間《あいだ》に一線を劃して、人は之を越えるのを畏《おそ》れる。必ずしも死を忌《い》むからではない。死は止むを得ぬと観念しても、唯此一線が怕《おそ》ろしくて越えられんのだ。私の逃出したのが矢張《やッぱり》それだ。女を知らぬ前と知った後《のち》との分界線を俗に皮切りという。私は性慾に駆られて此線の手前迄来て、これさえ越えれば望む所の性慾の満足を得られると思いながら、此線が怕《おそ》ろしくて越えられなかったのだ。越えたくなくて越えなかったのではなくて、越えたくても越えられなかったのだ。其後《そのご》幾年《いくねん》か経《た》って再び之を越えんとした時にも矢張《やッぱり》怕《おそ》ろしかったが、其時は酒の力を藉《か》りて、半狂気《はんきちがい》になって、
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