し、肝腎の翻訳がお留守になって、晩迄に二十枚は仕上げる積《つもり》の所を、十枚も出来ぬ事が折々ある。
 こうどうも昔ばかりを憶出していた日には、内職の邪魔になるばかりで、卑《さも》しいようだが、銭《ぜに》にならぬ。寧《いつ》そのくされ、思う存分書いて見よか、と思ったのは先達《せんだっ》ての事だったが、其後《そのご》――矢張《やっぱ》り書く時節が到来したのだ――内職の賃訳が弗《ふっ》と途切れた。此暇《このひま》を遊《あす》んで暮すは勿体ない。私は兎に角書いて見よう。
 実は、極く内々《ないない》の話だが、今でこそ私は腰弁当と人の数にも算《かず》まえられぬ果敢《はか》ない身の上だが、昔は是れでも何の某《なにがし》といや、或るサークルでは一寸《ちょっと》名の知れた文士だった。流石《さすが》に今でも文壇に昔馴染《むかしなじみ》が無いでもない。恥を忍んで泣付いて行ったら、随分一肩入れて、原稿を何処かの本屋へ嫁《かたづ》けて、若干《なにがし》かに仕て呉れる人が無いとは限らぬ。そうすりゃ、今年の暮は去年のような事もあるまい。何も可愛《かわゆ》い妻子《つまこ》の為だ。私は兎に角書いて見よう。
 さて、
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