向が見えて来たと曰う。世間の所謂《いわゆる》家庭教育というものは皆是ではないか。私は幸いにして親達が無教育無理想であったばかりに、型に推込まれる憂目《うきめ》を免《のが》れて、野育ちに育った。野育ちだから、生来具有の百の欠点を臆面もなく暴《さら》け出して、所謂《いわゆる》教育ある人達を顰蹙《ひんしゅく》せしめたけれど、其代り子供の時分は、今の様に矯飾《きょうしょく》はしなかった。皆《みんな》無教育な親達のお蔭だ。難有《ありがた》い事だと思う。真《しん》に難有《ありがた》い事だと思う。
しかし内拡《うちひろ》がりの外窄《そとすぼ》まりと昔から能《よ》く俗人が云う。哲人の深遠な道理よりも、詩人の徹底した見識よりも、平凡な私共の耳には此方が入《い》り易い。不思議な事には、無理想の俗人の言う事は皆活きて聞える。
私が矢張《やッぱり》其|内拡《うちひろが》りの外窄《そとすぼ》まりであった。
六
内ン中の鮑《あわび》ッ貝、外へ出りゃ蜆《しじみ》ッ貝、と友達に囃《はや》されて、私は悔しがって能《よ》く泣いたッけが、併し全く其通りであった。
如何《どう》いうものだか、内
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