シは?」
「松はお湯《ゆう》へ行って未だ帰って来ないの。」
「じゃ、貴嬢《あなた》お一人?」
「ええ……一寸《ちょっと》入《い》らッしゃいよ、此処へ。好《い》い物があるから。」
と手招《てまねぎ》をする。斯うなると、松陰先生崇拝の私もガタガタと震い出した。
三十六
前にも断って置いた通り、私は曾て真劒に雪江さんを如何《どう》かしようと思った事はない。それは決して無い。度々怪しからん事を想って、人知れず其を楽しんで居たのは事実だけれど、勧業債券を買った人が当籤《とうせん》せぬ先から胸算用をする格で、ほんの妄想《ぼうそう》だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸《ちょっと》入《い》らッしゃいよ、と手招ぎされて、驚破《すわ》こそと思う拍子に、自然と体の震い出したのは、即ち武者震いだ。千載一遇の好機会、逸《はず》してなるものか、というような気になって、必死になって武者震いを喰止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれる儘に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈《こご》んでいた雪江さんが、其時|勃然《むっくり》面《かお》を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張っていて、私の面《かお》を見て何だか言う。言
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