sさぞ》苦々しい事であったろう。兎も角もこうして松陰先生大の崇拝で、留魂録《りゅうこんろく》は暗誦《あんしょう》していた程だったが、しかし此松陰崇拝が、不思議な事には、些《ちっ》とも雪江さんを想う邪魔にならなかったから、其時分私の眼中は天下唯松陰先生と雪江さんと有るのみだった。
 で、いつも学校の帰りには此二人の事を考え考え帰るのだが、或日――たしか土曜日だったかと思う、土曜日は学校も早仕舞なので、三時頃にそうして二人の事を考えながら帰って見ると、主人夫婦はいつも茶の間だのに、其日は茶の間に居ない。書斎かと思って書斎へ行こうとすると、椽側の尽頭《はずれ》の雪江さんの部屋で、雪江さんの声で、
「誰?」
 という。私は思わず立止って、
「私《わたくし》です。」
「古屋さん?」
 という声と共に、部屋の障子が颯《さッ》と開《あ》いて、雪江さんが面《かお》だけ出して、
「今日は皆《みんな》留守よ。」
「え?」と私は耳が信ぜられなかった。
「阿父《とう》さんも阿母《かあ》さんもね、先刻《さっき》出懸けてよ。」
「そうですか」、と何気なく言ったが、内々《ないない》は何だか急に嬉しくなって来て、

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