いネー、マア御免になってサ。ほんとに仕様がないネー」
ト落胆した容子《ようす》。須臾《しばらく》あッて、
「マアそれはそうと、これからはどうして往《い》く積《つもり》だエ」
「どうも仕様が有りませんから、母親《おふくろ》にはもう些《すこ》し国に居て貰《もら》ッて、私はまた官員の口でも探そうかと思います」
「官員の口てッたッてチョックラチョイと有りゃアよし、無かろうもんならまた何時《いつう》かのような憂《つら》い思いをしなくッちゃアならないやアネ……だから私《あたし》が言わない事《こっ》ちゃアないんだ、些《ち》イと課長さんの所《とこ》へも御機嫌《ごきげん》伺いにお出でお出でと口の酸ぱくなるほど言ッても強情張ッてお出ででなかッたもんだから、それでこんな事になったんだヨ」
「まさかそういう訳でもありますまいが……」
「イイエ必《きっ》とそうに違いないヨ。デなくッて成程《なんぼ》人減《しとへ》らしだッて罪も咎《とが》もない者をそう無暗《むやみ》に御免になさる筈がないやアネ……それとも何か御免になっても仕様がないようなわりい事をした覚えがお有りか」
「イエ何にも悪い事をした覚えは有りませんが……」
「ソレ御覧なネ」
両人とも暫らく無言。
「アノ本田さんは([#ここから割り注]この男の事は第六回にくわしく[#ここで割り注終わり])どうだッたエ」
「かの男はよう御座んした」
「オヤ善かッたかい、そうかい、運の善方《いいかた》は何方《どっち》へ廻ッても善《いい》んだネー。それというが全躰《ぜんたい》あの方は如才がなくッて発明で、ハキハキしてお出でなさるからだヨ。それに聞けば課長さんの所《とこ》へも常不断《じょうふだん》御機嫌伺いにお出でなさるという事《こっ》たから、必《きっ》とそれで此度《こんど》も善かッたのに違いないヨ。だからお前さんも私の言事《いうこと》を聴いて、課長さんに取り入ッて置きゃア今度もやっぱり善かッたのかも知れないけれども、人の言事をお聴きでなかッたもんだからそれでこんな事になっちまッたんだ」
「それはそうかも知れませんが、しかし幾程《いくら》免職になるのが恐《こわ》いと言ッて、私にはそんな鄙劣《ひれつ》な事は……」
「出来ないとお言いのか……フン※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]我慢《やせがまん》をお言いでない、そんな了簡方だから課長さんにも睨《ねめ》られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思《おもい》なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更《なおさら》の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見《かざみ》の烏《からす》みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親《おっか》さんというものが有るじゃアないかエ」
母親と聞いて文三の萎《しお》れ返るを見て、お政は好い責《せめ》道具を視付《みつ》けたという顔付、長羅宇《ながらう》の烟管《きせる》で席《たたみ》を叩《たた》くをキッカケに、
「イエサ母親さんがお可愛《かわい》そうじゃアないかエ、マア篤《とっく》り胸に手を宛《あ》てて考えて御覧。母親さんだッて父親《おとっ》さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆《みんな》お前さんの立身するばッかりを楽《たのしみ》にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些《すこ》しでも汲分《くみわ》けてお出でなら、仮令《たと》えどんな辛いと思う事が有ッても厭《いや》だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付《かじりつい》ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣《しれつ》な事は出来ないのとそんな我儘|気随《きまま》を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日《こんにち》冥利《みょうり》がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関《かま》うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」
ト層《かさ》にかかッて極付《きめつけ》れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度《こんだ》御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆《がっかり》なさる事だろうが、年を寄《と》ッて御苦労なさるのを見ると真個《ほんと》にお痛《いたわ》しいようだ」
「実に母親《おふくろ》には面目《めんぼく》が御座んせん」
「当然《あたりまえ》サ、二十三にも成ッて母親さん一人さえ楽に養《すご》す事が出来ないんだものヲ。フフン面目が無くッてサ」
ト、ツンと済まして空嘯《そらうそぶ》き、烟草《たばこ》を環《わ》に吹《ふい》ている。そのお政の半面《よこがお》を文三は畏《こわ》らしい顔をして佶《きっ》と睨付《ねめつ》け、何事をか言わんとしたが……気を取直して莞爾《にっこり》微笑した積《つもり》でも顔へ顕《あら》われたところは苦笑い、震声《ふるいごえ》とも附かず笑声《わらいごえ》とも附かぬ声で、
「ヘヘヘヘ面目は御座んせんが、しかし……出……出来た事なら……仕様が有りません」
「何だとエ」
トいいながら徐《しず》かに此方《こなた》を振向いたお政の顔を見れば、何時しか額に芋※[#「虫+蜀」、第4水準2−87−92]《いもむし》ほどの青筋を張らせ、肝癪《かんしゃく》の眥《まなじり》を釣上げて唇《くちびる》をヒン曲げている。
「イエサ何とお言いだ。出来た事なら仕様が有りませんと……誰れが出来《でか》した事《こっ》たエ、誰れが御免になるように仕向けたんだエ、皆自分の頑固《かたいじ》から起ッた事《こっ》じゃアないか。それも傍《はた》で気を附けぬ事か、さんざッぱら人《しと》に世話を焼かして置て、今更御免になりながら面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有ませんとは何の事《こっ》たエ。それはお前さんあんまりというもんだ、余《あんま》り人《しと》を踏付けにすると言う者《もん》だ。全躰マア人《しと》を何だと思ッてお出《い》でだ、そりゃアお前さんの事《こっ》たから鬼老婆《おにばばあ》とか糞老婆《くそばばあ》とか言ッて他人にしてお出でかも知れないが、私ア何処《どこ》までも叔母の積だヨ。ナアニこれが他人で見るがいい、お前さんが御免になッたッて成らなくッたッて此方《こっち》にゃア痛くも痒《かい》くも何とも無い事《こっ》たから、何で世話を焼くもんですか。けれども血は繋《つなが》らずとも縁あッて叔母となり甥《おい》となりして見れば、そうしたもんじゃア有りません。ましてお前さんは十四の春ポッと出の山出しの時から、長の年月《としつき》、この私が婦人《おんな》の手一ツで頭から足の爪頭《つまさき》までの事を世話アしたから、私はお前さんを御迷惑かは知らないが血を分けた子息《むすこ》同様に思ッてます。ああやッてお勢や勇という子供が有ッても、些しも陰陽《かげしなた》なくしている事がお前さんにゃア解らないかエ。今までだッてもそうだ、何卒《どうぞ》マア文さんも首尾よく立身して、早く母親《おっか》さんを此地《こっち》へお呼び申すようにして上げたいもんだと思わない事は唯の一日も有ません。そんなに思ッてるとこだものヲ、お前さんが御免にお成りだと聞いちゃア私《あたし》は愉快《いいこころもち》はしないよ、愉快《いいこころもち》はしないからアア困ッた事に成ッたと思ッて、ヤレこれからはどうして往く積だ、ヤレお前さんの身になったらさぞ母親さんに面目があるまいと、人事《しとごと》にしないで歎《なげ》いたり悔《くやん》だりして心配してるとこだから、全躰なら『叔母さんの了簡に就《つ》かなくッて、こう御免になって実《まこと》に面目が有りません』とか何とか詫言《わびこと》の一言でも言う筈のとこだけれど、それも言わないでもよし聞たくもないが、人《しと》の言事を取上げなくッて御免になりながら、糞落着に落着払ッて、出来た事なら仕様が有りませんとは何の事《こっ》たエ。マ何処を押せばそんな音《ね》が出ます……アアアアつまらない心配をした、此方ではどこまでも実の甥と思ッて心を附けたり世話を焼たりして信切を尽していても、先様じゃア屁《へ》とも思召《おぼしめ》さない」
「イヤ決してそう言う訳じゃア有りませんが、御存知の通り口不調法なので、心には存じながらツイ……」
「イイエそんな言訳は聞きません。なんでも私《あたし》を他人にしてお出でに違いない、糞老婆《くそばばあ》と思ッてお出でに違いない……此方はそんな不実な心意気の人《しと》と知らないから、文さんも何時までもああやッて一人《しとり》でもいられまいから、来年母親さんがお出でなすったら篤《とっく》り御相談申して、誰と言ッて宛《あて》もないけれども相応なのが有ッたら一人《しとり》授けたいもんだ、それにしても外人《ほかびと》と違ッて文さんがお嫁をお貰いの事たから黙ッてもいられない、何かしら祝ッて上げなくッちゃアなるまいからッて、この頃じゃア、アノ博多《はかた》の帯をくけ直おさして、コノお召|縮緬《ちりめん》の小袖《こそで》を仕立直おさして、あれをこうしてこれをこうしてと、毎日々々|勘《かんが》えてばッかいたんだ。そうしたら案外で、御免になるもいいけれども、面目ないとも思わないで、出来た事なら仕様が有りませぬと済まアしてお出でなさる……アアアアもういうまいいうまい、幾程《いくら》言ッても他人にしてお出《いで》じゃア無駄《むだ》だ」
ト厭味文句を並べて始終肝癪の思入《おもいいれ》。暫らく有ッて、
「それもそうだが、全躰その位なら昨夕《ゆうべ》の中《うち》に、実はこれこれで御免になりましたと一言《しとこと》位言ッたッてよさそうなもんだ。お話しでないもんだから此方《こっち》はそんな事とは夢にも知らず、お弁当のお菜《かず》も毎日おんなじ物《もん》ばッかりでもお倦《あ》きだろう、アアして勉強してお勤にお出の事たからその位な事は此方で気を附けて上げなくッちゃアならないと思ッて、今日のお弁当のお菜《かず》は玉子焼にして上げようと思ッても鍋には出来ず、余儀所《よんどころ》ないから私が面倒な思いをして拵《こし》らえて附けましたアネ……アアアア偶《たま》に人《しと》が気を利《き》かせればこんな事《こ》ッた……しかし飛んだ余計なお世話でしたヨネー、誰れも頼みもしないのに……鍋」
「ハイ」
「文さんのお弁当は打開《ぶちあ》けておしまい」
お鍋|女郎《じょろう》は襖《ふすま》の彼方《あなた》から横幅《よこはば》の広い顔を差出《さしいだ》して、「ヘー」とモッケな顔付。
「アノネ、内の文さんは昨日《きのう》御免にお成りだッサ」
「ヘーそれは」
「どうしても働のある人《しと》は、フフン違ッたもんだヨ」
ト半《なかば》まで言切らぬ内、文三は血相を変てツと身を起し、ツカツカと座舗《ざしき》を立出でて我|子舎《へや》へ戻り、机の前にブッ座ッて歯を噛切《くいしば》ッての悔涙《くやしなみだ》、ハラハラと膝へ濫《こぼ》した。暫《しば》らく有ッて文三は、はふり落ちる涙の雨をハンカチーフで拭止《ぬぐいと》めた……がさて拭ッても取れないのは沸返える胸のムシャクシャ、熟々《つらつら》と思廻《おもいめぐ》らせば廻らすほど、悔しくも又|口惜《くちお》しくなる。免職と聞くより早くガラリと変る人の心のさもしさは、道理《もっとも》らしい愚痴の蓋《ふた》で隠蔽《かく》そうとしても看透《みす》かされる。とはいえそれは忍ぼうと思えば忍びもなろうが、面《まの》あたりに意久地なしと言わぬばかりのからみ文句、人を見括《みくび》ッた一言《いちごん》ばかりは、如
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