こ》かの人《しと》みたように親を馬鹿にしてサ、一口《しとくち》いう二口目には直《じき》に揚足を取るようだと義理にも可愛いと言われないけれど、文さんは親思いだから母親さんの恋しいのもまた一倍サ」
 トお勢を尻目《しりめ》にかけてからみ文句で宛《あて》る。お勢はまた始まッたという顔色《かおつき》をして彼方《あちら》を向てしまう、文三は余儀なさそうにエヘヘ笑いをする。
「それからアノー例の事ネ、あの事をまた何とか言ッてお遣《よこ》しなすッたかい」
「ハイ、また言ッてよこしました」
「なんッてネ」
「ソノー気心が解らんから厭だというなら、エー今年の暮帰省した時に、逢ッてよく気心を洞察《みぬい》た上で極めたら好かろうといって遣しましたが、しかし……」
「なに、母親さん」
「エ、ナニサ、アノ、ソラお前にもこの間話したアネ、文さんの……」
 お勢は独り切《しき》りに点頭《うなず》く。
「ヘーそんな事を言ッておよこしなすッたかい、ヘーそうかい……それに附けても早く内で帰ッて来れば好《いい》が……イエネ此間《こないだ》もお咄し申た通りお前さんのお嫁の事に付ちゃア内でも些《ちい》と考えてる事も有るんだから……尤《もっと》も私も聞て知てる事《こっ》たから今咄してしまってもいいけれども……」
 ト些し考えて
「何時返事をお出しだ」
「返事はもう出しました」
「エ、モー出したの、今日」
「ハイ」
「オヤマア文さんでもない、私になんとか一言《しとこと》咄してからお出しならいいのに」
「デスガ……」
「それはマアともかくも、何と言ッてお上げだ」
「エー今は仲々婚姻どころじゃアないから……」
「アラそんな事を言ッてお上げじゃア母親さんが尚《な》お心配なさらアネ。それよりか……」
「イエまだお咄し申さぬから何ですが……」
「マアサ私の言事《いうこと》をお聞きヨ。それよりかアノ叔父も何だか考えがあるというからいずれ篤《とっく》りと相談した上でとか、さもなきゃア此地《こっち》に心当りがあるから……」
「母親《おっかア》さん、そんな事を仰《おっ》しゃるけれど、文さんは此地《こっち》に何《なん》か心当りがお有《あん》なさるの」
「マアサ有ッても無くッても、そう言ッてお上げだと母親さんが安心なさらアネ……イエネ、親の身に成ッて見なくッちゃア解らぬ事《こっ》たけれども、子供一人身を固めさせようというのはどんなに苦労なもんだろう。だからお勢みたようなこんな親不孝な者《もん》でもそう何時までもお懐中《ぽっぽ》で遊《あす》ばせても置《おけ》ないと思うと私は苦労で苦労でならないから、此間《こないだ》も私《あたし》がネ、『お前ももう押付《おっつけ》お嫁に往かなくッちゃアならないんだから、ソノーなんだとネー、何時までもそんなに小供の様な心持でいちゃアなりませんと、それも母親さんのようにこんな気楽な家へお嫁に往かれりゃアともかくもネー、若《も》しヒョッと先に姑《しゅうとめ》でもある所《とこ》へ往《いく》んで御覧、なかなかこんなに我儘《わがまま》気儘をしちゃアいられないから、今の内に些《ちっ》と覚悟をして置かなくッちゃアなりませんヨ』と私が先へ寄ッて苦労させるのが可憐《かわい》そうだから為をおもって言ッて遣りゃアネ文さん、マア聞ておくれ、こうだ。『ハイ私《わたくし》にゃア私の了簡が有ります、ハイ、お嫁に往こうと往くまいと私の勝手で御座います』というんだヨ、それからネ私が『オヤそれじゃアお前はお嫁に往かない気かエ』と聞たらネ、『ハイ私は生一本《きいっぽん》で通します』ッて……マア呆《あき》れかえるじゃアないかネー文さん、何処の国にお前、尼じゃアあるまいし、亭主《ていし》持たずに一生暮すもんが有る者《もん》かネ」
 これは万更《まんざら》形のないお噺《はなし》でもない。四五日|前《ぜん》何かの小言序《こごとついで》にお政が尖《とが》り声で「ほんとにサ戯談《じょうだん》じゃアない、何歳《いくつ》になるとお思いだ、十八じゃアないか。十八にも成ッてサ、好頃《いいころ》嫁にでも往こうという身でいながら、なんぼなんだッて余《あんま》り勘弁がなさすぎらア。アアアア早く嫁にでも遣りたい、嫁に往ッて小喧《こやかま》しい姑でも持ッたら、些たア親の難有味《ありがたみ》が解るだろう」
 ト言ッたのが原因《もと》で些《ちと》ばかりいじり合をした事が有ッたが、お政の言ッたのは全くその作替《つくりかえ》で、
「トいうが畢竟《つま》るとこ、これが奥だからの事《こつ》サ。私共がこの位の時分にゃア、チョイとお洒落《しゃらく》をしてサ、小色《こいろ》の一ツも※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]了《かせい》だもんだけれども……」
「また猥褻《わいせつ》」
 トお勢は顔を皺《しか》める。
「オホオホオホほんとにサ、仲々|小悪戯《こいたずら》をしたもんだけれども、この娘《こ》はズー体《たい》ばかり大くッても一向しきなお懐《ぽっぽ》だもんだから、それで何時まで経ッても世話ばッかり焼けてなりゃアしないんだヨ」
「だから母親さんは厭ヨ、些《ちい》とばかりお酒に酔うと直《じき》に親子の差合いもなくそんな事をお言いだものヲ」
「ヘーヘー恐れ煎豆《いりまめ》はじけ豆ッ、あべこべに御意見か。ヘン、親の謗《そしり》はしりよりか些と自分の頭の蠅《はえ》でも逐《お》うがいいや、面白くもない」
「エヘヘヘヘ」
「イエネこの通り親を馬鹿にしていて、何を言ッてもとても私共の言事《いうこと》を用いるようなそんな素直なお嬢さまじゃアないんだから、此度《こんだ》文さんヨーク腹に落ちるように言ッて聞かせておくんなさい、これでもお前さんの言事なら、些《ちっ》たア聞くかも知れないから」
 トお政は又もお勢を尻目に懸ける。折しも紙襖《ふすま》一ツ隔ててお鍋の声として、
「あんな帯留め……どめ……を……」
 此方《こなた》の三人は吃驚《びっくり》して顔を見合わせ「オヤ鍋の寐言《ねごと》だヨ」と果ては大笑いになる。お政は仰向いて柱時計を眺《なが》め、
「オヤもう十一時になるヨ、鍋の寐言を言うのも無理はない、サアサア寝ましょう寝ましょう、あんまり夜深しをするとまた翌日《あした》の朝がつらい。それじゃア文さん、先刻《さっき》の事はいずれまた翌日《あした》にも緩《ゆっく》りお咄しましょう」
「ハイ私も……私も是非お咄し申さなければならん事が有りますが、いずれまた明日《みょうにち》……それではお休み」
 ト挨拶《あいさつ》をして文三は座舗《ざしき》を立出《たちい》で梯子段《はしごだん》の下《もと》まで来ると、後《うしろ》より、
「文さん、貴君《あなた》の所《とこ》に今日の新聞が有りますか」
「ハイ有ります」
「もうお読みなすッたの」
「読みました」
「それじゃア拝借」
 トお勢は文三の跡に従《つ》いて二階へ上る。文三が机上に載せた新聞を取ッてお勢に渡すと、
「文さん」
「エ」
 返答はせずしてお勢は唯《ただ》笑ッている。
「何です」
「何時《いつう》か頂戴《ちょうだい》した写真を今夜だけお返し申ましょうか」
「何故《なぜ》」
「それでもお淋《さみ》しかろうとおもって、オホオホ」
 ト笑いながら逃ぐるが如く二階を駆下りる。そのお勢の後姿を見送ッて文三は吻《ほっ》と溜息《ためいき》を吐《つ》いて、
「ますます言難《いいにく》い」
 一時間程を経て文三は漸《ようや》く寐支度をして褥《とこ》へは這入《はい》ッたが、さて眠られぬ。眠られぬままに過去《こしかた》将来《ゆくすえ》を思い回《めぐ》らせば回らすほど、尚お気が冴《さえ》て眼も合わず、これではならぬと気を取直し緊《きび》しく両眼を閉じて眠入《ねい》ッた風《ふり》をして見ても自ら欺《あざむ》くことも出来ず、余儀なく寐返りを打ち溜息を吻《つ》きながら眠らずして夢を見ている内に、一番|鶏《どり》が唱《うた》い二番鶏が唱い、漸く暁《あけがた》近くなる。
「寧《いっ》そ今夜《こよい》はこのままで」トおもう頃に漸く眼がしょぼついて来て額《あたま》が乱れだして、今まで眼前に隠見《ちらつい》ていた母親の白髪首《しらがくび》に斑《まばら》な黒髯《くろひげ》が生えて……課長の首になる、そのまた恐《こわ》らしい髯首が暫《しば》らくの間眼まぐろしく水車《みずぐるま》の如くに廻転《まわっ》ている内に次第々々に小いさく成ッて……やがて相恰《そうごう》が変ッて……何時の間にか薔薇《ばら》の花掻頭《はなかんざし》を挿《さ》して……お勢の……首……に……な……

     第五回 胸算《むなさん》違いから見一無法《けんいちむほう》は難題

 枕頭《まくらもと》で喚覚《よびさ》ます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三が狼狽《うろたえ》た顔を振揚げて向うを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射《さ》している。「ヤレ寐過《ねすご》したか……」と思う間もなく引続いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狭い胸がまず塞《ふさ》がる……※[#「くさかんむり/不」、第3水準1−90−64]※[#「くさかんむり/(官−宀)」、第4水準2−86−5]《おんばこ》を振掛けられた死蟇《しにがいる》の身で、躍上《おどりあが》り、衣服を更《あらた》めて、夜の物を揚げあえず楊枝《ようじ》を口へ頬張《ほおば》り故手拭《ふるてぬぐい》を前帯に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》んで、周章《あわて》て二階を降りる。その足音を聞きつけてか、奥の間で「文さん疾《はや》く為《し》ないと遅くなるヨ」トいうお政の声に圭角《かど》はないが、文三の胸にはぎっくり応《こた》えて返答にも迷惑《まごつ》く。そこで頬張ッていた楊枝をこれ幸いと、我にも解らぬ出鱈目《でたらめ》を句籠勝《くごもりがち》に言ッてまず一寸遁《いっすんのが》れ、匆々《そこそこ》に顔を洗ッて朝飯《あさはん》の膳《ぜん》に向ッたが、胸のみ塞がッて箸《はし》の歩みも止まりがち、三膳の飯を二膳で済まして、何時《いつ》もならグッと突出す膳もソッと片寄せるほどの心遣い、身体《からだ》まで俄《にわか》に小いさくなったように思われる。
 文三が食事を済まして縁側を廻わり窃《ひそ》かに奥の間を覗《のぞ》いて見れば、お政ばかりでお勢の姿は見えぬ。お勢は近属《ちかごろ》早朝より駿河台辺《するがだいへん》へ英語の稽古《けいこ》に参るようになッたことゆえ、さては今日ももう出かけたのかと恐々《おそるおそる》座舗《ざしき》へ這入《はい》ッて来る。その文三の顔を見て今まで火鉢《ひばち》の琢磨《すりみがき》をしていたお政が、俄かに光沢布巾《つやぶきん》の手を止《とど》めて不思議そうな顔をしたもその筈《はず》、この時の文三の顔色《がんしょく》がツイ一通りの顔色でない。蒼《あお》ざめていて力なさそうで、悲しそうで恨めしそうで耻《はず》かしそうで、イヤハヤ何とも言様がない。
「文さんどうかお為《し》か、大変顔色がわりいヨ」
「イエどうも為ませぬが……」
「それじゃア疾《はや》くお為ヨ。ソレ御覧な、モウ八時にならアネ」
「エーまだお話し……申しませんでしたが……実は、ス、さくじつ……め……め……」
 息気《いき》はつまる、冷汗は流れる、顔は※[#「赤+報のつくり」、50−8]《あか》くなる、如何《いか》にしても言切れぬ。暫《しば》らく無言でいて、更らに出直おして、
「ム、めん職になりました」
 ト一思いに言放ッて、ハッと差俯向《さしうつむ》いてしまう。聞くと等しくお政は手に持ッていた光沢布巾《つやぶきん》を宙に釣《つ》るして、「オヤ」と一|声《せい》叫んで身を反らしたまま一句も出《い》でばこそ、暫らくは唯《ただ》茫然《ぼうぜん》として文三の貌《かお》を目守《みつ》めていたが、稍《やや》あッて忙《いそが》わしく布巾を擲却《ほう》り出して小膝《こひざ》を進ませ、
「エ御免にお成りだとエ……オヤマどうしてマア」
「ど、ど、どうしてだか……私《わたくし》にも解りませんが……大方……ひ、人減《ひとべ》らしで……」
「オーヤオーヤ仕様がな
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