浮雲
二葉亭四迷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)薔薇《ばら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)文章|而已《のみ》は
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]
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浮雲はしがき
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薔薇《ばら》の花は頭《かしら》に咲て活人は絵となる世の中独り文章|而已《のみ》は黴《かび》の生えた陳奮翰《ちんぷんかん》の四角張りたるに頬返《ほおがえ》しを附けかね又は舌足らずの物言《ものいい》を学びて口に涎《よだれ》を流すは拙《つたな》しこれはどうでも言文|一途《いっと》の事だと思立ては矢も楯《たて》もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先|真闇《まっくら》三宝荒神《さんぽうこうじん》さまと春のや先生を頼み奉《たてまつ》り欠硯《かけすずり》に朧《おぼろ》の月の雫《しずく》を受けて墨|摺流《すりなが》す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさっと書流せばアラ無情《うたて》始末にゆかぬ浮雲めが艶《やさ》しき月の面影を思い懸《がけ》なく閉籠《とじこめ》て黒白《あやめ》も分かぬ烏夜玉《うばたま》のやみらみっちゃな小説が出来しぞやと我ながら肝を潰《つぶ》してこの書の巻端に序するものは
明治|丁亥《ひのとい》初夏
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[#地から2字上げ]二葉亭四迷
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浮雲第一篇序
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古代の未《いま》だ曾《かつ》て称揚せざる耳馴《みみな》れぬ文句を笑うべきものと思い又は大体を評し得ずして枝葉の瑕瑾《かきん》のみをあげつらうは批評家の学識の浅薄なるとその雅想なきを示すものなりと誰人にやありけん古人がいいぬ今や我国の文壇を見るに雅運日に月に進みたればにや評論家ここかしこに現われたれど多くは感情の奴隷にして我好む所を褒《ほ》め我|嫌《きら》うところを貶《おと》すその評判の塩梅《あんばい》たる上戸《じょうご》の酒を称し下戸の牡丹餅《ぼたもち》をもてはやすに異ならず淡味家はアライを可とし濃味家は口取を佳とす共に真味を知る者にあらず争《いか》でか料理通の言なりというべき就中《なかんずく》小説の如《ごと》きは元来その種類さまざまありて辛酸甘苦いろいろなるを五味を愛憎する心をもて頭《アタマ》くだしに評し去るは豈《あに》に心なきの極ならずや我友二葉亭の大人《うし》このたび思い寄る所ありて浮雲という小説を綴《つづ》りはじめて数ならぬ主人にも一臂《いっぴ》をかすべしとの頼みありき頼まれ甲斐《がい》のあるべくもあらねど一言二言の忠告など思いつくままに申し述べてかくて後大人の縦横なる筆力もて全く綴られしを一閲するにその文章の巧《たくみ》なる勿論《もちろん》主人などの及ぶところにあらず小説文壇に新しき光彩を添なんものは蓋《けだ》しこの冊子にあるべけれと感じて甚《はなは》だ僭越《せんえつ》の振舞にはあれど只《ただ》所々片言|隻句《せっく》の穩かならぬふしを刪正《さんせい》して竟《つい》に公にすることとなりぬ合作の名はあれどもその実四迷大人の筆に成りぬ文章の巧なる所趣向の面白き所は総《すべ》て四迷大人の骨折なり主人の負うところはひとり僭越の咎《とが》のみ読人|乞《こ》うその心してみそなわせ序《ついで》ながら彼の八犬伝|水滸伝《すいこでん》の如き規摸の目ざましきを喜べる目をもてこの小冊子を評したまう事のなからんには主人は兎《と》も角《かく》も二葉亭の大人否小説の霊が喜ぶべしと云爾
第二十年夏
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[#地から2字上げ]春の屋主人
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第一編
第一回 アアラ怪しの人の挙動《ふるまい》
千早振《ちはやふ》る神無月《かみなづき》ももはや跡|二日《ふつか》の余波《なごり》となッた二十八日の午後三時頃に、神田見附《かんだみつけ》の内より、塗渡《とわた》る蟻《あり》、散る蜘蛛《くも》の子とうようよぞよぞよ沸出《わきい》でて来るのは、孰《いず》れも顋《おとがい》を気にし給《たま》う方々。しかし熟々《つらつら》見て篤《とく》と点※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]《てんけん》すると、これにも種々《さまざま》種類のあるもので、まず髭《ひげ》から書立てれば、口髭、頬髯《ほおひげ》、顋《あご》の鬚《ひげ》、暴《やけ》に興起《おや》した拿破崙髭《ナポレオンひげ》に、狆《チン》の口めいた比斯馬克髭《ビスマルクひげ》、そのほか矮鶏髭《ちゃぼひげ》、貉髭《むじなひげ》、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡《うす》くもいろいろに生分《はえわか》る。髭に続いて差《ちが》いのあるのは服飾《みなり》。白木屋《しろきや》仕込みの黒物《くろいもの》ずくめには仏蘭西《フランス》皮の靴《くつ》の配偶《めおと》はありうち、これを召す方様《かたさま》の鼻毛は延びて蜻蛉《とんぼ》をも釣《つ》るべしという。これより降《くだ》っては、背皺《せじわ》よると枕詞《まくらことば》の付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこで踵《かかと》にお飾を絶《たや》さぬところから泥《どろ》に尾を曳《ひ》く亀甲洋袴《かめのこズボン》、いずれも釣《つる》しんぼうの苦患《くげん》を今に脱せぬ貌付《かおつき》。デモ持主は得意なもので、髭あり服あり我また奚《なに》をか※[#「不/見」、第3水準1−91−88]《もと》めんと済した顔色《がんしょく》で、火をくれた木頭《もくず》と反身《そっくりかえ》ッてお帰り遊ばす、イヤお羨《うらやま》しいことだ。その後《あと》より続いて出てお出でなさるは孰《いず》れも胡麻塩《ごましお》頭、弓と曲げても張の弱い腰に無残や空《から》弁当を振垂《ぶらさ》げてヨタヨタものでお帰りなさる。さては老朽してもさすがはまだ職に堪《た》えるものか、しかし日本服でも勤められるお手軽なお身の上、さりとはまたお気の毒な。
途上|人影《ひとけ》の稀《ま》れに成った頃、同じ見附の内より両人《ふたり》の少年《わかもの》が話しながら出て参った。一人は年齢《ねんぱい》二十二三の男、顔色は蒼味《あおみ》七分に土気三分、どうも宜《よろ》しくないが、秀《ひいで》た眉《まゆ》に儼然《きっ》とした眼付で、ズーと押徹《おしとお》った鼻筋、唯《ただ》惜《おしい》かな口元が些《ち》と尋常でないばかり。しかし締《しまり》はよさそうゆえ、絵草紙屋の前に立っても、パックリ開《あ》くなどという気遣《きづか》いは有るまいが、とにかく顋が尖《とが》って頬骨が露《あらわ》れ、非道《ひど》く※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]《やつ》れている故《せい》か顔の造作がとげとげしていて、愛嬌気《あいきょうげ》といったら微塵《みじん》もなし。醜くはないが何処《どこ》ともなくケンがある。背《せい》はスラリとしているばかりで左而已《さのみ》高いという程でもないが、痩肉《やせじし》ゆえ、半鐘なんとやらという人聞の悪い渾名《あだな》に縁が有りそうで、年数物ながら摺畳皺《たたみじわ》の存じた霜降《しもふり》「スコッチ」の服を身に纏《まと》ッて、組紐《くみひも》を盤帯《はちまき》にした帽檐広《つばびろ》な黒|羅紗《ラシャ》の帽子を戴《いただ》いてい、今一人は、前の男より二ツ三ツ兄らしく、中肉中背で色白の丸顔、口元の尋常な所から眼付のパッチリとした所は仲々の好男子ながら、顔立がひねてこせこせしているので、何となく品格のない男。黒羅紗の半「フロックコート」に同じ色の「チョッキ」、洋袴は何か乙な縞《しま》羅紗で、リュウとした衣裳附《いしょうづけ》、縁《ふち》の巻上ッた釜底形《かまぞこがた》の黒の帽子を眉深《まぶか》に冠《かぶ》り、左の手を隠袋《かくし》へ差入れ、右の手で細々とした杖《つえ》を玩物《おもちゃ》にしながら、高い男に向い、
「しかしネー、若《も》し果して課長が我輩を信用しているなら、蓋《けだ》し已《や》むを得ざるに出《い》でたんだ。何故《なぜ》と言ッて見給え、局員四十有余名と言やア大層のようだけれども、皆《みんな》腰の曲ッた老爺《じいさん》に非《あら》ざれば気の利《き》かない奴《やつ》ばかりだろう。その内で、こう言やア可笑《おか》しい様だけれども、若手でサ、原書も些《ちっ》たア噛《かじ》っていてサ、そうして事務を取らせて捗《はか》の往《い》く者と言ったら、マア我輩二三人だ。だから若し果して信用しているのなら、已《やむ》を得ないのサ」
「けれども山口を見給え、事務を取らせたらあの男程捗の往く者はあるまいけれども、やっぱり免を喰《く》ったじゃアないか」
「彼奴《あいつ》はいかん、彼奴は馬鹿だからいかん」
「何故」
「何故と言って、彼奴は馬鹿だ、課長に向って此間《こないだ》のような事を言う所を見りゃア、弥《いよいよ》馬鹿だ」
「あれは全体課長が悪いサ、自分が不条理な事を言付けながら、何にもあんなに頭ごなしにいうこともない」
「それは課長の方が或は不条理かも知れぬが、しかし苟《いやしく》も長官たる者に向って抵抗を試みるなぞというなア、馬鹿の骨頂だ。まず考えて見給え、山口は何んだ、属吏じゃアないか。属吏ならば、仮令《たと》い課長の言付を条理と思ったにしろ思わぬにしろ、ハイハイ言ってその通り処弁《しょべん》して往きゃア、職分は尽きてるじゃアないか。然《しか》るに彼奴のように、苟も課長たる者に向ってあんな差図がましい事を……」
「イヤあれは指図じゃアない、注意サ」
「フム乙《おつ》う山口を弁護するネ、やっぱり同病|相憐《あいあわ》れむのか、アハアハアハ」
高い男は中背の男の顔を尻眼《しりめ》にかけて口を鉗《つぐ》んでしまッたので談話《はなし》がすこし中絶《とぎ》れる。錦町《にしきちょう》へ曲り込んで二ツ目の横町の角まで参った時、中背の男は不図《ふと》立止って、
「ダガ君の免を喰《くっ》たのは、弔すべくまた賀すべしだぜ」
「何故」
「何故と言って、君、これからは朝から晩まで情婦《いろ》の側《そば》にへばり付いている事が出来らアネ。アハアハアハ」
「フフフン、馬鹿を言給うな」
ト高い男は顔に似気《にげ》なく微笑を含み、さて失敬の挨拶《あいさつ》も手軽るく、別れて独り小川町《おがわまち》の方へ参る。顔の微笑が一かわ一かわ消え往くにつれ、足取も次第々々に緩《ゆるや》かになって、終《つい》には虫の這《は》う様になり、悄然《しょんぼり》と頭《こうべ》をうな垂れて二三町程も参ッた頃、不図《ふと》立止りて四辺《あたり》を回顧《みまわ》し、駭然《がいぜん》として二足三足立戻ッて、トある横町へ曲り込んで、角から三軒目の格子戸《こうしど》作りの二階家へ這入《はい》る。一所《いっしょ》に這入ッて見よう。
高い男は玄関を通り抜けて縁側へ立出《たちいで》ると、傍《かたわら》の坐舗《ざしき》の障子がスラリ開《あ》いて、年頃十八九の婦人の首、チョンボリとした摘《つまみ》ッ鼻《ぱな》と、日の丸の紋を染抜いたムックリとした頬とで、その持主の身分が知れるという奴が、ヌット出る。
「お帰《かいん》なさいまし」
トいって、何故か口舐《くちなめ》ずりをする。
「叔母さんは」
「先程《さっき》お嬢さまと何処《どち》らへか」
「そう」
ト言捨てて高い男は縁側を伝《つたわ》って参り、突当りの段梯子《だんばしご》を登ッて二階へ上る。ここは六畳の小坐舗《こざしき》、一間の床《とこ》に三尺の押入れ付、三方は壁で唯南ばかりが障子になッている。床に掛けた軸は隅々《すみずみ》も既に虫喰《むしば》んで、床花瓶《とこばないけ》に投入れた二本三本《ふたもとみもと》の蝦夷菊《えぞぎく》は、うら枯れて枯葉がち。坐舗の一隅《いちぐう》を顧みると古びた机が一脚|据《す》え付けてあッて、筆、ペン、楊枝《ようじ》などを掴挿《つかみざ》しにした筆立一個に、歯磨《はみがき》の函《はこ》と肩を比《な
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