ら》べた赤間《あかま》の硯《すずり》が一面載せてある。机の側《かたわら》に押立たは二本|立《だち》の書函《ほんばこ》、これには小形の爛缶《ランプ》が載せてある。机の下に差入れたは縁《ふち》の欠けた火入、これには摺附木《すりつけぎ》の死体《しがい》が横《よこたわ》ッている。その外坐舗一杯に敷詰めた毛団《ケット》、衣紋竹《えもんだけ》に釣るした袷衣《あわせ》、柱の釘《くぎ》に懸けた手拭《てぬぐい》、いずれを見ても皆年数物、その証拠には手擦《てず》れていて古色|蒼然《そうぜん》たり。だが自《おのずか》ら秩然と取旁付《とりかたづい》ている。
 高い男は徐《しず》かに和服に着替え、脱棄てた服を畳みかけて見て、舌鼓《したつづみ》を撃ちながらそのまま押入へへし込んでしまう。ところへトパクサと上ッて来たは例の日の丸の紋を染抜いた首の持主、横幅《よこはば》の広い筋骨の逞《たくま》しい、ズングリ、ムックリとした生理学上の美人で、持ッて来た郵便を高い男の前に差置いて、
「アノー先刻《さっき》この郵便が」
「ア、そう、何処から来たんだ」
 ト郵便を手に取って見て、
「ウー、国からか」
「アノネ貴君《あなた》、今日のお嬢さまのお服飾《なり》は、ほんとにお目に懸けたいようでしたヨ。まずネ、お下着が格子縞の黄八丈《きはちじょう》で、お上着はパッとした|宜引[#「引」は小書き右寄せ]縞《いいしま》の糸織で、お髪《ぐし》は何時《いつ》ものイボジリ捲きでしたがネ、お掻頭《かんざし》は此間《こないだ》出雲屋《いずもや》からお取んなすったこんな」
 と故意々々《わざわざ》手で形を拵《こし》らえて見せ、
「薔薇《ばら》の花掻頭《はなかんざし》でネ、それはそれはお美しゅう御座いましたヨ……私もあんな帯留が一ツ欲しいけれども……」
 ト些《すこ》し塞《ふさ》いで、
「お嬢さまはお化粧なんぞはしないと仰《おっ》しゃるけれども、今日はなんでも内々で薄化粧なすッたに違いありませんヨ。だってなんぼ色がお白《しろい》ッてあんなに……私《わたくし》も家《うち》にいる時分はこれでもヘタクタ施《つ》けたもんでしたがネ、此家《こちら》へ上ッてからお正月ばかりにして不断は施けないの、施けてもいいけれども御新造《ごしんぞ》さまの悪口が厭《いや》ですワ、だッて何時《いつう》かもお客様のいらッしゃる前で、『鍋《なべ》のお白粉《しろい》を施けたとこは全然《まるで》炭団《たどん》へ霜が降ッたようで御座います』ッて……余《あんま》りじゃア有りませんか、ネー貴君、なんぼ私が不器量だッて余りじゃアありませんか」
 ト敵手《あいて》が傍《そば》にでもいるように、真黒になってまくしかける。高い男は先程より、手紙を把《と》ッては読かけ読かけてはまた下へ措《お》きなどして、さも迷惑な体《てい》。この時も唯「フム」と鼻を鳴らした而已《のみ》で更に取合わぬゆえ、生理学上の美人はさなくとも罅壊《えみわ》れそうな両頬《りょうきょう》をいとど膨脹《ふく》らして、ツンとして二階を降りる。その後姿を目送《みおく》ッて高い男はホット顔、また手早く手紙を取上げて読下す。その文言《もんごん》に
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一筆《ひとふで》示し※[#「参らせ候」のくずし字、13−8]《まいらせそろ》、さても時こうがら日増しにお寒う相成り候《そうら》えども御無事にお勤め被成《なされ》候や、それのみあんじくらし※[#「参らせ候」のくずし字、13−9]、母事《ははこと》もこの頃はめっきり年をとり、髪の毛も大方は白髪《しらが》になるにつき心まで愚痴に相成候と見え、今年の晩《くれ》には御地《おんち》へ参られるとは知りつつも、何とのう待遠にて、毎日ひにち指のみ折暮らし※[#「参らせ候」のくずし字、13−11]、どうぞどうぞ一日も早うお引取下されたく念じ※[#「参らせ候」のくずし字、13−12]、さる二十四日は父上の……
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 と読みさして覚えずも手紙を取落し、腕を組んでホット溜息《ためいき》。

     第二回 風変りな恋の初峯入《はつみねいり》 上

 高い男と仮に名乗らせた男は、本名を内海文三《うつみぶんぞう》と言ッて静岡県の者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄《ほうろく》を食《はん》だ者で有ッたが、幕府倒れて王政|古《いにしえ》に復《かえ》り時津風《ときつかぜ》に靡《なび》かぬ民草《たみぐさ》もない明治の御世《みよ》に成ッてからは、旧里静岡に蟄居《ちっきょ》して暫《しば》らくは偸食《とうしょく》の民となり、為《な》すこともなく昨日《きのう》と送り今日と暮らす内、坐して食《くら》えば山も空《むな》しの諺《ことわざ》に漏《も》れず、次第々々に貯蓄《たくわえ》の手薄になるところから足掻《あが》き出したが、さて木から落ちた猿猴《さる》の身というものは意久地の無い者で、腕は真陰流に固ッていても鋤鍬《すきくわ》は使えず、口は左様《さよう》然《しか》らばと重く成ッていて見れば急にはヘイの音《ね》も出されず、といって天秤《てんびん》を肩へ当るも家名の汚《けが》れ外聞が見ッとも宜《よ》くないというので、足を擂木《すりこぎ》に駈廻《かけまわ》ッて辛《から》くして静岡藩の史生に住込み、ヤレ嬉《うれ》しやと言ッたところが腰弁当の境界《きょうがい》、なかなか浮み上る程には参らぬが、デモ感心には多《おおく》も無い資本を吝《おし》まずして一子文三に学問を仕込む。まず朝|勃然《むっくり》起る、弁当を背負《しょ》わせて学校へ出《だし》て遣《や》る、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とても余所外《よそほか》の小供では続かないが、其処《そこ》は文三、性質が内端《うちば》だけに学問には向くと見えて、余りしぶりもせずして出て参る。尤《もっと》も途《みち》に蜻蛉《とんぼ》を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、悄然《しょんぼり》として裏口から立戻ッて来る事も無いではないが、それは邂逅《たまさか》の事で、ママ大方は勉強する。その内に学問の味も出て来る、サア面白くなるから、昨日《きのう》までは督責《とくせき》されなければ取出さなかッた書物をも今日は我から繙《ひもと》くようになり、随《したが》ッて学業も進歩するので、人も賞讃《ほめそや》せば両親も喜ばしく、子の生長《そだち》にその身の老《おゆ》るを忘れて春を送り秋を迎える内、文三の十四という春、待《まち》に待た卒業も首尾よく済だのでヤレ嬉しやという間もなく、父親は不図感染した風邪《ふうじゃ》から余病を引出し、年比《としごろ》の心労も手伝てドット床に就《つ》く。薬餌《やくじ》、呪《まじない》、加持祈祷《かじきとう》と人の善いと言う程の事を為尽《しつく》して見たが、さて験《げん》も見えず、次第々々に頼み少なに成て、遂《つい》に文三の事を言い死《じに》にはかなく成てしまう。生残た妻子の愁傷は実に比喩《たとえ》を取るに言葉もなくばかり、「嗟矣《ああ》幾程《いくら》歎いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖《そで》に置くは泪《なみだ》の露、漸《ようや》くの事で空しき骸《から》を菩提所《ぼだいしょ》へ送りて荼毘《だび》一片の烟《けぶり》と立上らせてしまう。さて※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]人《かせぎにん》が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼《やくれい》と葬式の雑用《ぞうよう》とに多《おおく》もない貯叢《たくわえ》をゲッソリ遣い減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝《おとこまさ》りの気丈者、貧苦にめげない煮焚《にたき》の業《わざ》の片手間に一枚三厘の襯衣《シャツ》を縫《く》けて、身を粉《こ》にして※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]了《かせ》ぐに追付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥《かゆ》なりを啜《すすっ》て、公債の利の細い烟《けぶり》を立てている。文三は父親の存生中《ぞんじょうちゅう》より、家計の困難に心附かぬでは無いが、何と言てもまだ幼少の事、何時《いつ》までもそれで居られるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢《とし》には増せた事を言い出しては両親に袂《たもと》を絞らせた事は有《あっ》ても、又|何処《どこ》ともなく他愛《たわい》のない所も有て、浪《なみ》に漂う浮艸《うきぐさ》の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後|便《たより》のない母親の辛苦心労を見るに付け聞くに付け、小供心にも心細くもまた悲しく、始めて浮世の塩が身に浸《し》みて、夢の覚たような心地。これからは給事なりともして、母親の手足《たそく》にはならずとも責めて我口だけはとおもう由《よし》をも母に告げて相談をしていると、捨る神あれば助《たすく》る神ありで、文三だけは東京《とうけい》に居る叔父の許《もと》へ引取られる事になり、泣《なき》の泪《なみだ》で静岡を発足《ほっそく》して叔父を便《たよ》って出京したは明治十一年、文三が十五に成た春の事とか。
 叔父は園田孫兵衛《そのだまごべえ》と言いて、文三の亡父の為めには実弟に当る男、慈悲深く、憐《あわれ》ッぽく、しかも律義《りちぎ》真当《まっとう》の気質ゆえ人の望《う》けも宜いが、惜《おしい》かな些《ち》と気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立《やたて》に替えて、朝夕|算盤《そろばん》を弾《はじ》いては見たが、慣れぬ事とて初の内は損毛《そんもう》ばかり、今日に明日《あす》にと喰込《くいこん》で、果は借金の淵《ふち》に陥《は》まり、どうしようこうしようと足掻《あが》き※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている内、不図した事から浮み上《あがっ》て当今では些とは資本も出来、地面をも買い小金をも貸付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店《さてん》の支配人をしている事なれば、左而已《さのみ》富貴《ふっき》と言うでもないが、まず融通《ゆとり》のある活計《くらし》。留守を守る女房のお政《まさ》は、お摩《さす》りからずるずるの後配《のちぞい》、歴《れっき》とした士族の娘と自分ではいうが……チト考え物。しかしとにかく如才のない、世辞のよい、地代から貸金の催促まで家事一切|独《ひとり》で切って廻る程あって、万事に抜目のない婦人。疵瑕《きず》と言ッては唯《ただ》大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイ嫌《きら》いというばかり。さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬが世の習い、「あの婦人《おんな》は裾張蛇《すそっぱりじゃ》の変生《へんしょう》だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢《せい》と言ッて、その頃はまだ十二の蕾《つぼみ》、弟《おとと》を勇《いさみ》と言ッて、これもまた袖で鼻汁《はな》拭《ふ》く湾泊盛《わんぱくざか》り(これは当今は某校に入舎していて宅には居らぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機《き》に入ればイザコザは無いが、さて文三には人の機嫌《きげん》気褄《きづま》を取るなどという事は出来ぬ。唯心ばかりは主《しゅう》とも親とも思ッて善く事《つか》えるが、気が利《き》かぬと言ッては睨付《ねめつ》けられる事何時も何時も、その度ごとに親の難有《ありがた》サが身に染《し》み骨に耐《こた》えて、袖に露を置くことは有りながら、常に自ら叱《しか》ッてジット辛抱、使歩行《つかいある》きをする暇《いとま》には近辺の私塾へ通学して、暫《しばら》らく悲しい月日を送ッている。ト或る時、某学校で生徒の召募があると塾での評判取り取り、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見たところ、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費が貰《もら》える。昨日《きのう》までは叔父の家とは言いながら食客《いそうろう》の悲しさには、追使われたうえ気兼苦労|而已《のみ》をしていたのが、今日は外《ほか》に掣肘《ひかれ》る所もなく、心一杯に勉強の出来る身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのと、それはそれは雀躍《こおどり》までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界《ひとくがい》。固《もと》
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