狭《ところせ》きまで植駢《うえなら》べた艸花《くさばな》立樹《たちき》なぞが、詫《わび》し気に啼《な》く虫の音を包んで、黯黒《くらやみ》の中《うち》からヌッと半身を捉出《ぬきだ》して、硝子張《ガラスばり》の障子を漏れる火影《ほかげ》を受けているところは、家内《やうち》を覘《うかが》う曲者かと怪まれる……ザワザワと庭の樹立《こだち》を揉《も》む夜風の余りに顔を吹かれて、文三は慄然《ぶるぶる》と身震をして起揚《たちあが》り、居間へ這入《はい》ッて手探りで洋燈《ランプ》を点《とぼ》し、立膝《たてひざ》の上に両手を重ねて、何をともなく目守《みつめ》たまま暫《しば》らくは唯|茫然《ぼんやり》……不図手近かに在ッた薬鑵《やかん》の白湯《さゆ》を茶碗《ちゃわん》に汲取《くみと》りて、一息にグッと飲乾し、肘《ひじ》を枕《まくら》に横に倒れて、天井に円く映る洋燈《ランプ》の火燈《ほかげ》を目守めながら、莞爾《にっこ》と片頬《かたほ》に微笑《えみ》を含んだが、開《あい》た口が結ばって前歯が姿を隠すに連れ、何処《いずく》からともなくまた愁《うれい》の色が顔に顕《あら》われて参ッた。
「それはそうとどうしようかしらん、到底言わずには置けん事《こっ》たから、今夜にも帰ッたら、断念《おもいき》ッて言ッてしまおうかしらん。さぞ叔母が厭《いや》な面《かお》をする事《こっ》たろうナア……眼に見えるようだ……しかしそんな事を苦にしていた分には埒《らち》が明かない、何にもこれが金銭を借りようというではなし、毫《すこ》しも耻《はず》かしい事はない、チョッ今夜言ッてしまおう……だが……お勢がいては言い難《にく》いナ。若しヒョット彼《あれ》の前で厭味なんぞを言われちゃア困る。これは何んでも居ない時を見て言う事《こっ》た。いない……時を……見……何故《なぜ》、何故言難い、苟《いやしく》も男児たる者が零落したのを耻ずるとは何んだ、そんな小胆な、糞《くそ》ッ今夜言ッてしまおう。それは勿論《もちろん》彼娘《あれ》だッて口へ出してこそ言わないが何んでも来年の春を楽しみにしているらしいから、今|唐突《だしぬけ》に免職になッたと聞いたら定めて落胆するだろう。しかし落胆したからと言ッて心変りをするようなそんな浮薄な婦人《おんな》じゃアなし、かつ通常の婦女子と違ッて教育も有ることだから、大丈夫そんな気遣いはない。それは決《け》してないが、叔母だて……ハテナ叔母だて。叔母はああいう人だから、我《おれ》が免職になッたと聞たら急にお勢をくれるのが厭になッて、無理に彼娘《あれ》を他《た》へかたづけまいとも言われない。そうなったからと言ッて此方《こっち》は何も確《かた》い約束がして有るんでないから、否《いや》そうは成りませんとも言われない……嗚呼《ああ》つまらんつまらん、幾程《いくら》おもい直してもつまらん。全躰《ぜんたい》何故|我《おれ》を免職にしたんだろう、解らんナ、自惚《うぬぼれ》じゃアないが我《おれ》だッて何も役に立たないという方でもなし、また残された者だッて何も別段役に立つという方でもなし、して見ればやっぱり課長におべッからなかったからそれで免職にされたのかな……実に課長は失敬な奴だ、課長も課長だが残された奴等もまた卑屈極まる。僅《わず》かの月給の為めに腰を折ッて、奴隷《どれい》同様な真似をするなんぞッて実に卑屈極まる……しかし……待《まて》よ……しかし今まで免官に成ッて程なく復職した者がないでも無いから、ヒョッとして明日《あした》にも召喚状が……イヤ……来ない、召喚状なんぞが来て耐《たま》るものか、よし来たからと言ッて今度《こんだ》は此方《こっち》から辞してしまう、誰が何と言おうト関《かま》わない、断然辞してしまう。しかしそれも短気かナ、やっぱり召喚状が来たら復職するかナ……馬鹿|奴《め》、それだから我《おれ》は馬鹿だ、そんな架空な事を宛にして心配するとは何んだ馬鹿奴。それよりかまず差当りエート何んだッけ……そうそう免職の事を叔母に咄《はな》して……さぞ厭な顔をするこッたろうナ……しかし咄さずにも置かれないから思切ッて今夜にも叔母に咄して……ダガお勢のいる前では……チョッいる前でも関《かま》わん、叔母に咄して……ダガ若し彼娘《あれ》のいる前で口汚たなくでも言われたら……チョッ関わん、お勢に咄して、イヤ……お勢じゃない叔母に咄して……さぞ……厭な顔……厭な顔を咄して……口……口汚なく咄《はな》……して……アア頭が乱れた……」
ト、ブルブルと頭《かしら》を左右へ打振る。
轟然《ごうぜん》と駆て来た車の音が、家の前でパッタリ止まる。ガラガラと格子戸《こうしど》が開《あ》く、ガヤガヤと人声がする。ソリャコソと文三が、まず起直ッて突胸《とむね》をついた。両手を杖《つえ》に起《たた》んとしてはまた坐り、坐らんとしてはまた起《た》つ。腰の蝶番《ちょうつがい》は満足でも、胸の蝶番が「言ッてしまおうか」「言難いナ」と離れ離れに成ッているから、急には起揚《たちあが》られぬ……俄に蹶然《むっく》と起揚ッて梯子段《はしごだん》の下口《おりぐち》まで参ッたが、不図立止まり、些《すこ》し躊躇《ためら》ッていて、「チョッ言ッてしまおう」と独言《ひとりごと》を言いながら、急足《あしばや》に二階を降りて奥坐舗《おくざしき》へ立入る。
奥坐舗の長手の火鉢《ひばち》の傍《かたわら》に年配四十|恰好《がっこう》の年増《としま》、些し痩肉《やせぎす》で色が浅黒いが、小股《こまた》の切上《きりあが》ッた、垢抜《あかぬ》けのした、何処ともでんぼう肌《はだ》の、萎《すが》れてもまだ見所のある花。櫛巻《くしま》きとかいうものに髪を取上げて、小弁慶《こべんけい》の糸織の袷衣《あわせ》と養老の浴衣《ゆかた》とを重ねた奴を素肌に着て、黒繻子《くろじゅす》と八段《はったん》の腹合わせの帯をヒッカケに結び、微酔機嫌《ほろえいきげん》の啣楊枝《くわえようじ》でいびつに坐ッていたのはお政で。文三の挨拶《あいさつ》するを見て、
「ハイ只今《ただいま》、大層遅かッたろうネ」
「全体|今日《こんち》は何方《どちら》へ」
「今日はネ、須賀町《すがちょう》から三筋町《みすじまち》へ廻わろうと思ッて家《うち》を出たんだアネ。そうするとネ、須賀町へ往ッたらツイ近所に、あれはエート芸人……なんとか言ッたッけ、芸人……」
「親睦《しんぼく》会」
「それそれその親睦会が有るから一所に往こうッてネお浜さんが勧めきるんサ。私は新富座《しんとみざ》か二丁目ならともかくも、そんな珍木会《ちんぼくかい》とか親睦会とかいう者《もん》なんざア七里々《しちりしちり》けぱいだけれども、お勢《せ》……ウーイプー……お勢が往《いき》たいというもんだから仕様事《しようこと》なしのお交際《つきやい》で往《いっ》て見たがネ、思ッたよりはサ。私はまた親睦会というから大方演じゅつ会のような種《たち》のもんかしらとおもったら、なアにやっぱり品《しん》の好い寄席《よせ》だネ。此度《こんだ》文さんも往ッて御覧な、木戸は五十銭だヨ」
「ハアそうですか、それでは孰《いず》れまた」
説話《はなし》が些し断絶《とぎ》れる。文三は肚《はら》の裏《うち》に「おなじ言うのならお勢の居ない時だ、チョッ今言ッてしまおう」ト思い決《さだ》めて今|将《まさ》に口を開かんとする……折しも縁側にパタパタと跫音《あしおと》がして、スラリと背後《うしろ》の障子が開《あ》く、振反《ふりかえ》ッて見れば……お勢で。年は鬼もという十八の娘盛り、瓜実顔《うりざねがお》で富士額、生死《いきしに》を含む眼元の塩にピンとはねた眉《まゆ》で力味《りきみ》を付け、壺々口《つぼつぼぐち》の緊笑《しめわら》いにも愛嬌《あいきょう》をくくんで無暗《むやみ》には滴《こぼ》さぬほどのさび、背《せい》はスラリとして風に揺《ゆら》めく女郎花《おみなえし》の、一時をくねる細腰もしんなりとしてなよやか、慾にはもうすこし生際《はえぎわ》と襟足《えりあし》とを善くして貰《もら》いたいが、何《な》にしても七難を隠くすという雪白の羽二重肌、浅黒い親には似ぬ鬼子《おにっこ》でない天人娘。艶《つや》やかな黒髪を惜気もなくグッと引詰《ひっつ》めての束髪、薔薇《ばら》の花挿頭《はなかんざし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》したばかりで臙脂《べに》も甞《な》めねば鉛華《おしろい》も施《つ》けず、衣服《みなり》とても糸織の袷衣《あわせ》に友禅と紫繻子の腹合せの帯か何かでさして取繕いもせぬが、故意《わざ》とならぬ眺《ながめ》はまた格別なもので、火をくれて枝を撓《た》わめた作花《つくりばな》の厭味《いやみ》のある色の及ぶところでない。衣透姫《そとおりひめ》に小町の衣《ころも》を懸けたという文三の品題《みたて》は、それは惚《ほ》れた慾眼の贔負沙汰《ひいきざた》かも知れないが、とにもかくにも十人並優れて美くしい。坐舗へ這入りざまに文三と顔を見合わして莞然《にっこり》、チョイと会釈をして摺足《すりあし》でズーと火鉢の側《そば》まで参り、温藉《しとやか》に坐に着く。
お勢と顔を見合わせると文三は不思議にもガラリ気が変ッて、咽元《のどもと》まで込み上げた免職の二字を鵜呑《うの》みにして何|喰《く》わぬ顔色《がんしょく》、肚の裏《うち》で「もうすこし経《た》ッてから」
「母親《おっか》さん、咽が涸《かわ》いていけないから、お茶を一杯入れて下さいナ」
「アイヨ」
トいってお政は茶箪笥《ちゃだんす》を覗《のぞ》き、
「オヤオヤ茶碗が皆《みんな》汚れてる……鍋」
ト呼ばれて出て来た者を見れば例の日の丸の紋を染抜いた首の持主で、空嘯《そらうそぶ》いた鼻の端《さき》へ突出された汚穢物《よごれもの》を受取り、振栄《ふりばえ》のあるお尻《いど》を振立てて却退《ひきさが》る。やがて洗ッて持ッて来る、茶を入れる、サアそれからが今日聞いて来た歌曲の噂《うわさ》で、母子《おやこ》二《ふたつ》の口が結ばる暇なし。免職の事を吹聴《ふいちょう》したくも言出す潮《しお》がないので、文三は余儀なく聴きたくもない咄《はなし》を聞て空《むな》しく時刻を移す内、説話《はなし》は漸くに清元《きよもと》長唄《ながうた》の優劣論に移る。
「母親さんは自分が清元が出来るもんだからそんな事をお言いだけれども、長唄の方が好《いい》サ」
「長唄も岡安《おかやす》ならまんざらでもないけれども、松永は唯つッこむばかりで面白くもなんとも有りゃアしない。それよりか清元の事サ、どうも意気でいいワ。『四谷《よつや》で始めて逢《お》うた時、すいたらしいと思うたが、因果な縁の糸車』」
ト中音で口癖の清元を唄《うた》ッてケロリとして
「いいワ」
「その通り品格がないから嫌《きら》い」
「また始まッた、ヘン跳馬《じゃじゃうま》じゃアあるまいし、万古に品々《しんしん》も五月蠅《うるさ》い」
「だッて人間は品格が第一ですワ」
「ヘンそんなにお人柄《しとがら》なら、煮込《にこ》みのおでんなんぞを喰《たべ》たいといわないがいい」
「オヤ何時私がそんな事を言ました」
「ハイ一昨日《おとつい》の晩いいました」
「嘘《うそ》ばっかし」
トハ言ッたが大《おおき》にへこんだので大笑いとなる。不図お政は文三の方を振向いて
「アノ今日出懸けに母親さんの所《とこ》から郵便が着たッけが、お落掌《うけとり》か」
「ア真《ほん》にそうでしたッけ、さっぱり忘却《わすれ》ていました……エー母からもこの度は別段に手紙を差上げませんが宜《よろ》しく申上げろと申ことで」
「ハアそうですか、それは。それでも母親さんは何時《いつ》もお異《かわん》なすったことも無くッて」
「ハイ、お蔭《かげ》さまと丈夫だそうで」
「それはマア何よりの事《こっ》た。さぞ今年の暮を楽しみにしておよこしなすったろうネ」
「ハイ、指ばかり屈《おっ》ていると申てよこしましたが……」
「そうだろうてネ、可愛《かわい》い息子さんの側へ来るんだものヲ。それをネー何処《ど
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