の日に瓊葩綉葉《けいはしゅうよう》の間、和気《かき》香風の中《うち》に、臥榻《がとう》を据えてその上に臥《ね》そべり、次第に遠《とおざか》り往く虻《あぶ》の声を聞きながら、眠《ねぶ》るでもなく眠らぬでもなく、唯ウトウトとしているが如く、何ともかとも言様なく愉快《こころよか》ッたが、虫|奴《め》は何時の間にか太く逞《たくま》しく成ッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添《そい》たいの蛇《じゃ》」という蛇《へび》に成ッて這廻《はいまわ》ッていた……寧《むし》ろ難面《つれな》くされたならば、食すべき「たのみ」の餌《えさ》がないから、蛇奴も餓死《うえじに》に死んでしまいもしようが、憖《なまじい》に卯《う》の花くだし五月雨《さみだれ》のふるでもなくふらぬでもなく、生殺《なまごろ》しにされるだけに蛇奴も苦しさに堪え難《か》ねてか、のたうち廻ッて腸《はらわた》を噛断《かみちぎ》る……初の快さに引替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、窃《ひそ》かに叔母の顔色《がんしょく》を伺ッて見れば、気の所為《せい》か粋《すい》を通して見て見ぬ風をしているらしい。「若《も》しそうなればもう叔母の許《ゆるし》を受けたも同前……チョッ寧《いっ》そ打附《うちつ》けに……」ト思ッた事は屡々《しばしば》有ッたが、「イヤイヤ滅多な事を言出して取着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬《いば》の絆《たづな》を引緊《ひきし》め、藻《も》に住む虫の我から苦んでいた……これからが肝腎|要《かなめ》、回を改めて伺いましょう。

     第三回 余程|風変《ふうがわり》な恋の初峯入 下

 今年の仲の夏、或一|夜《や》、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮より所用あッて出たまま未《ま》だ帰宅せず、下女のお鍋《なべ》も入湯にでも参ッたものか、これも留守、唯《ただ》お勢の子舎《へや》に而已《のみ》光明《あかり》が射《さ》している。文三|初《はじめ》は何心なく二階の梯子段《はしごだん》を二段三段|登《あが》ッたが、不図立止まり、何か切《しき》りに考えながら、一段降りてまた立止まり、また考えてまた降りる……俄《にわ》かに気を取直して、将《まさ》に再び二階へ登らんとする時、忽《たちま》ちお勢の子舎の中《うち》に声がして、
「誰方《どなた》」
 トいう。
「私《わたくし》」
 ト返答をして文三は肩を縮《すく》める。
「オヤ誰方かと思ッたら文さん……淋《さみ》しくッてならないから些《ちっ》とお噺《はな》しにいらッしゃいな」
「エ多謝《ありがと》う、だがもう些《ちっ》と後《のち》にしましょう」
「何か御用が有るの」
「イヤ何も用はないが……」
「それじゃア宜《いい》じゃア有りませんか、ネーいらッしゃいヨ」
 文三は些《すこ》し躊躇《ためらっ》て梯子段を降果てお勢の子舎の入口まで参りは参ッたが、中《うち》へとては立入らず、唯|鵠立《たたずん》でいる。
「お這入《はいん》なさいな」
「エ、エー……」
 ト言ッたまま文三は尚《な》お鵠立《たたずん》でモジモジしている、何か這入りたくもあり這入りたくもなしといった様な容子《ようす》。
「何故《なぜ》貴君《あなた》、今夜に限ッてそう遠慮なさるの」
「デモ貴嬢《あなた》お一人ッきりじゃア……なんだか……」
「オヤマア貴君にも似合わない……アノ何時《いつ》か、気が弱くッちゃア主義の実行は到底覚束ないと仰《おっ》しゃッたのは何人《どなた》だッけ」
 ト※[#「虫+秦」、第4水準2−87−73]《しん》の首を斜《ななめ》に傾《か》しげて嫣然《えんぜん》片頬《かたほ》に含んだお勢の微笑に釣《つ》られて、文三は部屋へ這入り込み坐に着きながら、
「そう言われちゃア一言もないが、しかし……」
「些とお遣いなさいまし」
 トお勢は団扇《うちわ》を取出《とりいだ》して文三に勧め、
「しかしどうしましたと」
「エ、ナニサ影口がどうも五月蠅《うるさく》ッて」
「それはネ、どうせ些とは何とか言いますのサ。また何とか言ッたッて宜じゃア有りませんか、若《も》しお相互《たがい》に潔白なら。どうせ貴君、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦《かんく》は免《のが》れッこは有りませんワ」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入ると厭《いや》なものサ」
「それはそうですヨネー。この間もネ貴君、鍋が生意気に可笑《おか》しな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私が余《あんま》り五月蠅なッたから、到底解るまいとはおもいましたけれども試《こころみ》に男女交際論を説て見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語が雑《ま》ざるから全然《まるっきり》何を言ッたのだか解りませんて……真個《ほんと》に教育のないという者は仕様のないもんですネー」
「アハハハ其奴《そいつ》は大笑いだ……しかし可笑しく思ッているのは鍋ばかりじゃア有りますまい、必《きっ》と母親《おっか》さんも……」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから始終可笑しな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱《はずか》しめ辱しめ為《し》い為いしたら、あれでも些とは耻《は》じたと見えてネ、この頃じゃアそんなに言わなくなりましたよ」
「ヘーからかう、どんな事を仰しゃッて」
「アノーなんですッて、そんなに親しくする位なら寧《むし》ろ貴君と……(すこしもじもじして言かねて)結婚してしまえッて……」
 ト聞くと等しく文三は駭然《ぎょっ》としてお勢の顔を目守《みつめ》る。されど此方《こなた》は平気の躰《てい》で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責める訳にもいけませんヨネー。私の朋友《ほうゆう》なんぞは、教育の有ると言う程有りゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育は享《う》けているんですよ、それでいて貴君、西洋主義の解るものは、二十五人の内に僅《たった》四人《よったり》しかないの。その四人《よったり》もネ、塾にいるうちだけで、外《ほか》へ出てからはネ、口程にもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁に往《い》ッたりお婿《むこ》を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細《こころぼそく》ッて心細ッてなりません。でしたがネ、この頃は貴君という親友が出来たから、アノー大変気丈夫になりましたわ」
 文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろ嬉《うれ》しい」
「アラお世辞じゃア有りませんよ、真実《ほんとう》ですよ」
「真実なら尚お嬉しいが、しかし私にゃア貴嬢《あなた》と親友の交際は到底出来ない」
「オヤ何故ですエ、何故親友の交際が出来ませんエ」
「何故といえば、私には貴嬢が解からず、また貴嬢には私が解からないから、どうも親友の交際は……」
「そうですか、それでも私には貴君はよく解ッている積りですよ。貴君の学識が有ッて、品行が方正で、親に孝行で……」
「だから貴嬢には私が解らないというのです。貴嬢は私を親に孝行だと仰しゃるけれども、孝行じゃア有りません。私には……親より……大切な者があります……」
 ト吃《どもり》ながら言ッて文三は差俯向《さしうつむ》いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子を眺《なが》めながら
「親より大切な者……親より……大切な……者……親より大切な者は私にも有りますワ」
 文三はうな垂れた頸《くび》を振揚げて
「エ、貴嬢にも有りますと」
「ハア有りますワ」
「誰《だ》……誰れが」
「人じゃアないの、アノ真理」
「真理」
 ト文三は慄然《ぶるぶる》と胴震《どうぶるい》をして唇《くちびる》を喰《く》いしめたまま暫《しば》らく無言《だんまり》、稍《やや》あッて俄《にわか》に喟然《きぜん》として歎息して、
「アア、貴嬢は清浄なものだ潔白なものだ……親より大切なものは真理……アア潔白なものだ……しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚《ぐ》にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだり揉《もん》だりして玩弄《がんろう》する。玩弄されると薄々気が附きながらそれを制することが出来ない。アア自分ながら……」
 ト些《すこ》し考えて、稍ありて熱気《やっき》となり、
「ダガ思い切れない……どう有ッても思い切れない……お勢さん、貴嬢は御自分が潔白だからこんな事を言ッてもお解りがないかも知れんが、私には真理よりか……真理よりか大切な者があります。去年の暮から全半歳《まるはんとし》、その者の為《た》めに感情を支配せられて、寐《ね》ても寤《さ》めても忘らればこそ、死ぬより辛《つら》いおもいをしていても、先では毫《すこ》しも汲んでくれない。寧ろ強顔《つれ》なくされたならば、また思い切りようも有ろうけれども……」
 ト些し声をかすませて、
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は……どうも……どう有ッても思い……」
「アラ月が……まるで竹の中から出るようですよ、ちょっと御覧なさいヨ」
 庭の一隅《いちぐう》に栽込《うえこ》んだ十竿《ともと》ばかりの繊竹《なよたけ》の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳《かげ》だもない、蒼空《あおぞら》一面にてりわたる清光素色、唯|亭々皎々《ていていきょうきょう》として雫《しずく》も滴《した》たるばかり。初は隣家の隔ての竹垣に遮《さえぎ》られて庭を半《なかば》より這初《はいはじ》め、中頃は縁側へ上《のぼ》ッて座舗《ざしき》へ這込み、稗蒔《ひえまき》の水に流れては金瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]《きんれんえん》、簷馬《ふうりん》の玻璃《はり》に透《とお》りては玉《ぎょく》玲瓏《れいろう》、座賞の人に影を添えて孤燈一|穂《すい》の光を奪い、終《つい》に間《あわい》の壁へ這上《はいのぼ》る。涼風一陣吹到る毎《ごと》に、ませ籬《がき》によろぼい懸る夕顔の影法師が婆娑《ばさ》として舞い出し、さてわ百合《ゆり》の葉末にすがる露の珠《たま》が、忽ち蛍《ほたる》と成ッて飛迷う。艸花《くさばな》立樹《たちき》の風に揉《も》まれる音の颯々《ざわざわ》とするにつれて、しばしは人の心も騒ぎ立つとも、須臾《しゅゆ》にして風が吹罷《ふきや》めば、また四辺《あたり》蕭然《ひっそ》となって、軒の下艸《したぐさ》に集《すだ》く虫の音《ね》のみ独り高く聞える。眼に見る景色はあわれに面白い。とはいえ心に物ある両人《ふたり》の者の眼には止まらず、唯お勢が口ばかりで
「アア佳《いい》こと」
 トいって何故《なにゆえ》ともなく莞然《にっこり》と笑い、仰向いて月に観惚《みと》れる風《ふり》をする。その半面《よこがお》を文三が窃《ぬす》むが如く眺め遣《や》れば、眼鼻口の美しさは常に異《かわ》ッたこともないが、月の光を受けて些し蒼味を帯《お》んだ瓜実顔《うりざねがお》にほつれ掛ッたいたずら髪、二筋三筋|扇頭《せんとう》の微風に戦《そよ》いで頬《ほお》の辺《あたり》を往来するところは、慄然《ぞっ》とするほど凄味《すごみ》が有る。暫らく文三がシケジケと眺めているト、やがて凄味のある半面《よこがお》が次第々々に此方《こちら》へ捻《ねじ》れて……パッチリとした涼しい眼がジロリと動き出して……見とれていた眼とピッタリ出逢《であ》う。螺《さざい》の壺々口《つぼつぼぐち》に莞然《にっこ》と含んだ微笑を、細根大根に白魚《しらうお》を五本並べたような手が持ていた団扇で隠蔽《かく》して、耻《はず》かしそうなしこなし。文三の眼は俄に光り出す。
「お勢さん」
 但《ただ》し震声《ふるいごえ》で。
「ハイ」
 但し小声で。
「お勢さん、貴嬢《あなた》もあんまりだ、余《あんま》り……残酷だ、私がこれ……これ程までに……」
 トいいさして文三は顔に手を宛《あ》てて黙ッてしまう。意《こころ》を注《とど》めて能《よ》く見れば、壁に写ッた影法師が、慄然《ぶるぶる》とばかり震えている。今|一言《ひとこと》……今一言の言葉の関を、踰《こ》えれば先は妹背山《いもせやま》、蘆垣《あしがき》の間近き人を恋い初《そ》めてより、
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