、いざ昇と顔を合せると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変りも無いが、それをいう調子に何処か今までに無いところが有ッて、濁ッて、厭味を含む。用も無いに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくも無いことに高く笑ッたり、誰やらに顔を見られているなと心附きながら、それを故意《わざ》と心附かぬ風《ふり》をして、磊落《らいらく》に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と眼を見合わして、狼狽《うろたえ》て横へ外らしたことさえ度々《たびたび》有ッた。総《すべ》て今までとは様子が違う、それを昇の居る前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔を※[#「赤+報のつくり」、205−14]《あか》めて、如何《いか》にも極《きま》りが悪そうに見えた。が、その極り悪そうなもいつしか失《う》せて、その後は、昇に飽いたのか、珍らしくなくなったのか、それとも何か争《いさか》いでもしたのか、どうしたのか解らないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向構わなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴《さ》えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、余り口数もきかず、総て仲のわるい従兄妹《いとこ》同士のように、遠慮気なく余所々々《よそよそ》しく待遇《もてな》す。昇はさして変らず、尚お折節には戯言《ざれごと》など云い掛けてみるが、云ッても、もウお勢が相手にならず、勿論嬉しそうにも無く、ただ「知りませんよ」と彼方《あちら》向くばかり。それ故《ゆえ》に、昇の戯《ざれ》ばみも鋒尖《ほこさき》が鈍ッて、大抵は、泣眠入《なきねい》るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。その代り、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、誰彼の見さかいなく戯《たわぶ》れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踏の真似をするやら、飛だり、跳ねたり、高笑をしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた眼の中《うち》を曇らして、落着いて、冷淡になッて、しまう。
けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いで叱られたとて、鎮《しず》まりもしないが、悪《にく》まれ口もきかず、却《かえ》ッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初のうちは苦い顔を作ッていたものの、竟《つい》には、どうかこうか釣込まれて、叱る声を崩して笑ッてしまう。但し朝起される時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬を脹《ふく》らせる※[#白ゴマ点、206−14]が、それもその程が過ぎれば、我から機嫌を直して、華やいで、時には母親に媚《こ》びるのかと思うほどの事をもいう。初の程はお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子で有ッた。
そのうちにお勢が編物の夜稽古《よげいこ》に通いたいといいだす。編物よりか、心|易《やす》い者に日本の裁縫を教える者が有るから、昼間|其所《そこ》へ通えと、母親のいうを押反して、幾度《いくたび》か幾度か、掌《て》を合せぬばかりにして是非に編物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみ付いて頬の辺《あたり》に接吻《せっぷん》しそうに、あまえた強請《ねだ》るような眼付で顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし」と賺《すか》されてしまッた。
編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧が嫌いで、これまで、外出《そとで》するにも、薄化粧ばかりしていたが、編物の稽古を初めてからは、「皆《みんな》が大層作ッて来るから、私一人なにしない……」と咎《とが》める者も無いに、我から分疏《いいわけ》をいいいい、こッてりと、人品《じんぴん》を落すほどに粧《つく》ッて、衣服も成《なり》たけ美《よ》いのを撰《えら》んで着て行く。夜だから、此方《こちら》ので宜いじゃないかと、美くない衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。
お政はそわそわして出て行く娘の後姿を何時も請難《うけに》くそうに目送《みおく》る……
昇は何時からともなく足を遠くしてしまッた。
第十九回
お勢は一旦《いったん》は文三を仂《はした》なく辱《はずかし》めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さして辛《つら》くも当らん※[#白ゴマ点、207−16]が、それに引替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしに待遇《もてな》す。何か用事が有りて下座敷へ降りれば、家内中|寄集《よりこぞ》りて、口を解《ほど》いて面白そうに雑談《ぞうだん》などしている時でも、皆云い合したように、ふと口を箝《つぐ》んで顔を曇らせる、といううちにも取分けてお政は不機嫌《ふきげん》な体《てい》で、少し文三の出ようが遅ければ、何を愚頭々々《ぐずぐず》していると云わぬばかりに、此方《こちら》を睨《ね》めつけ、時には気を焦《いら》ッて、聞えよがしに舌鼓《したつづみ》など鳴らして聞かせる事も有る。文三とても、白痴でもなく、瘋癲《ふうてん》でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退《ひ》けば眉《まゆ》を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心附かんでも無いから、心苦しいことは口に云えぬほどで有る、けれど、尚《な》お園田の家を辞し去ろうとは思わん。何故《なにゆえ》にそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循な心から、あれほどにされても、尚おそのような角立った事は出来んか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、抑《そもそ》もまた、文三の位置では陥り易《やす》い謬《あやまり》、お勢との関繋《かんけい》がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? 総《すべ》てこれ等の事は多少は文三の羞《はじ》を忍んで尚お園田の家に居る原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というは即《すなわ》ち人情の二字、この二字に覊絆《しばら》れて文三は心ならずも尚お園田の家に顔を皺《しか》めながら留《とどま》ッている。
心を留《とど》めて視《み》なくとも、今の家内の調子がむかしとは大《おおい》に相違するは文三にも解る。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素で有ッて、人々が眼を見合しては微笑し、幸福といわずして幸福を楽んでいたころは家内全体に生温《なまぬる》い春風が吹渡ッたように、総て穏《おだやか》に、和いで、沈着《おちつ》いて、見る事聞く事が尽《ことごと》く自然に適《かな》ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、我も人も皆何か不足を感じながら、強《あなが》ちにそれを足そうともせず、却《かえ》って今は足らぬが当然と思っていたように、急《せ》かず、騒がず、優游《ゆうゆう》として時機の熟するを竢《ま》っていた、その心の長閑《のどか》さ、寛《ゆるやか》さ、今|憶《おも》い出しても、閉じた眉が開くばかりな……そのころは人々の心が期せずして自《おのずか》ら一致し、同じ事を念《おも》い、同じ事を楽んで、強《あなが》ちそれを匿《か》くそうともせず、また匿くすまいともせず※[#白ゴマ点、209−6]胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事は云わず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親で無い親、――も、こう三人集ッたところに、誰が作り出すともなく、自らに清く、穏な、優しい調子を作り出して、それに随《つ》れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生の我よりは優《まさ》ったようで、お政のような婦人でさえ、尚お何処《どこ》か頼もし気な所が有ったのみならず、却ってこれが間に介《はさ》まらねば、余り両人《ふたり》の間が接近しすぎて穏さを欠くので、お政は文三等の幸福を成すに無《なく》て叶《かな》わぬ人物とさえ思われた。が、その温《あたたか》な愛念も、幸福な境界《きょうがい》も、優しい調子も、嬉《うれ》しそうに笑う眼元も口元も、文三が免職になッてから、取分けて昇が全く家内へ立入ったから、皆突然に色が褪《さ》め、気が抜けだして、遂《つい》に今日この頃のこの有様となった……
今の家内の有様を見れば、もはや以前のような和いだ所も無ければ、沈着《おちつ》いた所もなく、放心《なげやり》に見渡せば、総て華《はなや》かに、賑《にぎや》かで、心配もなく、気あつかいも無く、浮々《うかうか》として面白そうに見えるものの、熟々《つらつら》視れば、それは皆|衣物《きもの》で、※[#「身+果」、第4水準2−89−55]体《はだかみ》にすれば、見るも汚《けがら》わしい私欲、貪婪《どんらん》、淫褻《いんせつ》、不義、無情の塊《かたまり》で有る。以前人々の心を一致さした同情も無ければ、私心の垢《あか》を洗った愛念もなく、人々|己《おのれ》一個の私《わたくし》をのみ思ッて、己《おの》が自恣《じし》に物を言い、己が自恣に挙動《たちふるま》う※[#白ゴマ点、210−4]|欺《あざむ》いたり、欺かれたり、戯言《ぎげん》に託して人の意《こころ》を測ッてみたり、二つ意味の有る言《こと》を云ってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり、――いろいろさまざまに不徳を尽す。
お政は、いうまでもなく、死灰《しかい》の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合せて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯癢《はがゆ》がって気を揉《も》み散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後《のち》の面倒を慮《おも》って迂濶《うかつ》に手は出さんが、罠《わな》のと知りつつ、油鼠《あぶらねずみ》の側《そば》を去られん老狐《ふるぎつね》の如くに、遅疑しながらも、尚おお勢の身辺を廻って、横眼で睨《にら》んでは舌舐《したねぶ》りをする(文三は何故か昇の妻となる者は必ず愚《おろか》で醜い代り、権貴な人を親に持った、身柄《みがら》の善い婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意《こころ》を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている※[#白ゴマ点、210−12]しかも互に見抜れていると略《ほ》ぼ心附いている。それゆえに、故《ことさ》らに無心な顔を作り、思慮の無い言《こと》を云い、互に瞞着《まんちゃく》しようと力《つと》めあうものの、しかし、双方共力は牛角《ごかく》のしたたかものゆえ、優《まさり》もせず、劣《おとり》もせず、挑《いど》み疲れて今はすこし睨合《にらみあい》の姿となった。総てこれ等の動静《ようす》は文三も略《ほ》ぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危い境に身を処《お》きながら、それには少しも心附かず、私欲と淫欲とが爍《れき》して出来《でか》した、軽く、浮いた、汚《けがら》わしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑《たかわらい》をする、その様子を見ると、手を束《つか》ねて安座していられなくなる。
お勢は今|甚《はなは》だしく迷っている、豕《いのこ》を抱《いだ》いて臭きを知らずとかで、境界《きょうがい》の臭みに居ても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状《さま》を察するに、譬《たと》えば酒に酔ッた如くで、気は暴《あれ》ていても、心は妙に昧《くら》んでいるゆえ、見る程の物聞く程の事が眼や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立消をしてしまうであろう※[#白ゴマ点、211−5]また徒《た》だ外界と縁遠くなったのみならず、我内界とも疎《うと》くなったようで、我心ながら我心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘《いざな》われて言動|作息《さそく》するから、我《われ》にも我が判然とは分るまい、今のお勢の眼には宇宙は鮮《あざや》いで見え、万物は美しく見え、人は皆|我一人《われいちにん》を愛して我一人のために働いているように見えよう※[#白ゴマ点、211−9]|若《も》し顔を皺《しか》めて溜息《ためいき》を吐《つ》く者が有れば、この世はこれほど住
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