者《もん》でも家大人《おとッさん》の血統《ちすじ》だから今と成てかれこれ言出しちゃ面倒臭《めんどくさ》いと思ッて、此方《こッち》から折れて出て遣《や》れば附上ッて、そんな我儘《わがまま》勝手を云う……モウ勘弁がならない」
 ト云ッて些し考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人《おとッさん》はネ、行々はお前を文三に配合《めあわ》せる積りでお出でなさるんだが、お前は……厭だろうネ」
「厭サ厭サ、誰があんな奴に……」
「必《きっ》とそうかえ」
「誰があんな奴《や》つに……乞食《こじき》したッてあんな奴のお嫁に成るもんか」
「その一言《いちごん》をお忘れでないよ。お前が弥々《いよいよ》その気なら慈母さんも了簡が有るから」
「慈母さん、今日から私を下宿さしておくんなさいな」
「なんだネこの娘《こ》は、藪《やぶ》から棒に」
「だッて私ア、モウ文さんの顔を見るのも厭だもの」
「そんな事言ッたッて仕様が無いやアネ。マアもう些と辛抱してお出で、その内にゃ慈母さんが宜いようにして上るから」
 この時はお勢は黙していた、何か考えているようで。
「これからは真個《ほんとう》に慈母さんの言事を聴いて、モウ余《あんま》り文三と口なんぞお聞きでないよ」
「誰が聞てやるもんか」
「文三ばかりじゃ無い、本田さんにだッてもそうだよ。あんなに昨夜《ゆうべ》のように遠慮の無い事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな……不埒《ふらち》なんぞはお為《し》じゃ有るまいけれども、今が嫁入前で一番大事な時だから」
「慈母さんまでそんな事を云ッて……そんならモウこれから本田さんが来たッて口もきかないから宜い」
「口を聞くなじゃ無いが、唯|昨夜《ゆうべ》のように……」
「イイエイイエ、モウ口も聞かない聞かない」
「そうじゃ無いと云えばネ」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない」
 ト頭振《かぶ》りを振る娘の顔を視て、母親は、
「全《まる》で狂気《きちがい》だ。チョイと人が一言いえば直《すぐ》に腹を立《たっ》てしまッて、手も附けられやアしない」
 ト云い捨てて起上《たちあが》ッて、部屋を出てしまッた。
[#改丁]

   第三編


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 浮雲第三篇ハ都合に依ッて此雜誌へ載せる事にしました。
 固《も》と此小説ハつまらぬ事を種に作ッたものゆえ、人物も事実も皆つまらぬもののみでしょうが、それは作者も承知の事です。
 只々《ただ》作者にハつまらぬ事にハつまらぬという面白味が有るように思われたからそれで筆を執ッてみた計りです。
[#ここで字下げ終わり]


     第十三回

 心理の上から観《み》れば、智愚の別なく人|咸《ことごと》く面白味は有る。内海文三の心状を観れば、それは解ろう。
 前回参看※[#白ゴマ点、169−10]文三は既にお勢に窘《たしな》められて、憤然として部屋へ駈戻《かけもど》ッた。さてそれからは独り演劇《しばい》、泡《あわ》を噛《かん》だり、拳《こぶし》を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました」それは一時の激語、も承知しているでもなく、又いないでも無い。から、強《あなが》ちそればかりを怒ッた訳でもないが、只《ただ》腹が立つ、まだ何か他《た》の事で、おそろしくお勢に欺《あざむ》かれたような心地がして、訳もなく腹が立つ。
 腹の立つまま、遂《つい》に下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事は既にすッぱり思切ッているか、というに、そうではない、思切ッてはいない。思切ッてはいないが、思切らぬ訳にもゆかぬから、そこで悶々《むしゃくしゃ》する。利害得喪、今はそのような事に頓着無い。只|己《おの》れに逆らッてみたい、己れの望まない事をして見たい。鴆毒《ちんどく》? 持ッて来い。甞《な》めてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!……
 そこで宿所を出た。同じ下宿するなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往《い》ッて尋ねてみたが、どうも無かッた。から、彼地《あれ》から小石川へ下りて、其処此処《そこここ》と尋廻《たずねまわ》るうちに、ふと水道町《すいどうちょう》で一軒見当てた。宿料も廉《れん》、その割には坐舗《ざしき》も清潔、下宿をするなら、まず此所等《ここら》と定めなければならぬ……となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに……」言葉を濁してその家《うち》を出た。
「お勢と諍論《いいあ》ッて家を出た――叔父が聞いたら、さぞ心持を悪くするだろうなア……」と歩きながら徐々《そろそろ》畏縮《いじけ》だした。「と云ッて、どうもこのままには済まされん……思切ッて今の家に下宿しようか?……」
 今更心が動く、どうしてよいか訳がわからない。時計を見れば、まだ漸《ようや》く三時半すこし廻わッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所《あれ》から牛込見附《うしごめみつけ》へ懸ッて、腹の屈托《くったく》を口へ出して、折々往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪問《おとずれ》てみた。
 折善くもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒の噂《うわさ》、留学、竜動《ロンドン》、「たいむす」、はッばァと、すぺんさあー[#「はッばァと、すぺんさあー」に傍線]――相変らぬ噺《はなし》で、おもしろくも何ともない。「私……事に寄ると……この頃に下宿するかも知れません」、唐突に宛《あて》もない事を云ッてみたが、先生少しも驚かず、何故《なにゆえ》かふむと鼻を鳴らして、只「羨《うらや》ましいな。もう一度そんな身になってみたい」とばかり。とんと方角が違う。面白くないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
 出た時の勢《いきおい》に引替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事で有ッたろう。まず眼を配ッてお勢を探す。見えない、お勢が……棄てた者に用も何もないが、それでも、文三に云わせると、人情というものは妙なもので、何となく気に懸るから、火を持ッて上ッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いと仰《おっ》しゃッて、御膳《ごぜん》も碌《ろく》に召上らずに、モウお休みなさいました、という。
「御膳も碌に?……」
「御膳も碌に召しやがらずに」
 確められて文三急に萎《しお》れかけた……が、ふと気をかえて、「ヘ、ヘ、ヘ、御膳も召上らずに……今に鍋焼饂飩《なべやきうどん》でも喰《くい》たくなるだろう」
 おかしな事をいうとは思ッたが、使に出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
 と、独りになる。「ヘ、ヘ、ヘ」とまた思出して冷笑《あざわら》ッた……が、ふと心附いてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋《やくたい》も無い事に拘《かかわ》ッている時ではない。「叔父の手前何と云ッて出たものだろう?」と改めて首を捻《ひね》ッて見たが、もウ何となく馬鹿気ていて、真面目《まじめ》になって考えられない。「何と云ッて出たものだろう?」と強《し》いて考えてみても、心|奴《め》がいう事を聴かず、それとは全く関繋《かんけい》もない余所事《よそごと》を何時《いつ》からともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもその余所事が気に懸ッて、気に懸ッて、どうもならない。怺《こら》えに、怺えに、怺えて見たが、とうどう怺え切れなくなッて、「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん」、はッと云ッても追付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三は狼狽《あわ》てて後悔をしてしまッた。
 叱《しか》るよりは謝罪《あやま》る方が文三には似合うと誰やらが云ッたが、そうかも知れない。

     第十四回

「気の毒気の毒」と思い寐《ね》にうとうととして眼を覚まして見れば、烏《からす》の啼声《なきごえ》、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶《つるべ》を軋《きし》らせる響《ひびき》。少し眠足《ねた》りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、只お鍋が睡むそうな顔をして釜《かま》の下を焚付《たきつ》けているばかり。誰も起きていない。
 朝寐が持前のお勢、まだ臥《ね》ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
 早く顔が視《み》たい、如何様《どん》な顔をしているか。顔を視れば、どうせ好い心地がしないは知れていれど、それでいて只早く顔が視たい。
 三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、肉癢《こそば》ゆい。髪の寐乱れた、顔の蒼《あお》ざめた、腫瞼《はれまぶち》の美人が始終|眼前《めさき》にちらつく。
「昨日《きのう》下宿しようと騒いだは誰で有ッたろう」と云ッたような顔色《かおつき》……
 朝飯《あさはん》がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はその頃になッて漸々《ようよう》起きて来て、入ろうとする、――縁側でぴッたり出会ッた……はッと狼狽《うろた》えた文三は、予《かね》て期《ご》した事ながら、それに引替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三を尻眼《しりめ》に懸けたまま、奥坐舗へツイとも云わず入ッてしまッた。只それだけの事で有ッた。
 が、それだけで十分。そのじろりと視た眼付が眼の底に染付《しみつ》いて忘れようとしても忘れられない。胸は痞《つか》えた。気は結ぼれる。搗《か》てて加えて、朝の薄曇りが昼少し下《さが》る頃より雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
 お勢は気分の悪いを口実《いいだて》にして英語の稽古《けいこ》にも往かず、只一間に籠《こも》ッたぎり、音沙汰《おとさた》なし。昼飯《ひるはん》の時、顔を合わしたが、お勢は成りたけ文三の顔を見ぬようにしている。偶々《たまたま》眼を視合わせれば、すぐ首を据《す》えて可笑《おか》しく澄ます。それが睨付《にらみつけ》られるより文三には辛《つら》い。雨は歇《や》まず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッて誰とて口を聞く者も無し。文三果は泣出したくなッた。
 心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たか、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞える。お勢はその時奥坐舗に居たが、それを聞くと、狼狽《うろた》えて起上ろうとしたが間に合わず、――気軽《きがろ》に入ッて来る昇に視られて、さも余義なさそうに又坐ッた。
 何も知らぬから、昇、例の如く、好もしそうな眼付をしてお勢の顔を視て、挨拶《あいさつ》よりまず戯言《ざれごと》をいう、お勢は莞爾《にっこり》ともせず、真面目な挨拶をする、――かれこれ齟齬《くいちが》う。から、昇も怪訝《けげん》な顔色《かおつき》をして何か云おうとしたが、突然お政が、三日も物を云わずにいたように、たてつけて饒舌《しゃべ》り懸けたので、つい紛《はぐ》らされてその方を向く。その間《ま》にお勢はこッそり起上ッて坐舗を滑り出ようとして……見附けられた。
「何処《どこ》へ、勢ちゃん?」
 けれども、聞えませんから返答を致しませんと云わぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
 部屋は真の闇《やみ》。手探りで摺附木《マッチ》だけは探り当てたが、洋燈《ランプ》が見附らない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないので有ろう。「鍋や」と呼んで少し待ッてみて又「鍋や……」、返答をしない。「鍋、鍋、鍋」たてつけて呼んでも返答をしない。焦燥《じれ》きッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ……そんな……呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを」
「だッてお奥で御用をしていたンですものを」
「用をしていると返答は出来なくッて?」
「御免遊ばせ……何か御用?」
「用が無くッて呼びはしないよ……そンな……人を……くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
 二三度聞直して漸く分ッて洋燈《ランプ》は持ッて来たが、心無し奴《め》が跡をも閉めずして出て往ッた。
「ばか」
 顔に似合わぬ悪体を吐《つ》きながら、起上《たちあが》ッて邪慳《じゃけん》に障子を〆《
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