云ッて文三|起上《たちあが》ッたが、また立止ッて、
「がこの頃の挙動《そぶり》と云い容子《ようす》と云い、ヒョッとしたら本田に……何してはいないかしらん……チョッ関わん、若しそうならばモウそれまでの事だ。ナニ我《おれ》だッて男子だ、心渝《こころがわり》のした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉《とりひ》しいで、そしてお勢にも……お勢にも後悔さして、そして……そして……そして……」
 ト思いながら二階を降りた。
 が此処が妙で、観菊行《きくみゆき》の時同感せぬお勢の心を疑ッたにも拘《かかわ》らず、その夜帰宅してからのお勢の挙動《そぶり》を怪んだのにも拘らず、また昨日《きのう》の高笑い昨夜《ゆうべ》のしだらを今|以《もっ》て面白からず思ッているにも拘らず、文三は内心の内心では尚おまだお勢に於て心変りするなどと云うそんな水臭い事は無いと信じていた。尚おまだ相談を懸ければ文三の思う通りな事を云って、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由が有るからこう信じていたのでは無くて、こう信じたいからこう信じていたので。

     第十二回 いすかの嘴《はし》

 文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子を開けるその途端《とたん》に、今まで机に頼杖《ほおづえ》をついて何事か物思いをしていたお勢が、吃驚《びっくり》した面相《かおつき》をして些《すこ》し飛上ッて居住居《いずまい》を直おした。顔に手の痕《あと》の赤く残ッている所を観ると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃ有りませんか」
「イイエ」
「それじゃア」
 ト云いながら文三は部屋へ這入《はい》ッて坐に着いて
「昨夜《さくや》は大《おおき》に失敬しました」
「私《わたくし》こそ」
「実に面目が無い、貴嬢《あなた》の前をも憚《はばか》らずして……今朝その事で慈母《おっか》さんに小言を聞きました。アハハハハ」
「そう、オホホホ」
 ト無理に押出したような笑い。何となく冷淡《つめた》い、今朝のお勢とは全で他人のようで。
「トキニ些し貴嬢に御相談が有る。他の事でも無いが、今朝慈母さんの仰《おっ》しゃるには……シカシもうお聞きなすッたか」
「イイエ」
「成程そうだ、御存知ない筈《はず》だ……慈母さんの仰しゃるには、本田がアア信切に云ッてくれるものだから、橋渡しをして貰《もら》ッて課長の所へ往《い》ッたらばどうだと仰しゃるのです。そりゃ成程慈母さんの仰しゃる通り今|茲処《ここ》で私さえ我《が》を折れば私の身も極《き》まるシ、老母も安心するシ、『三方四方』(ト言葉に力瘤《ちからこぶ》を入れて)円く納まる事だから、私も出来る事ならそうしたいが、シカシそう為《し》ようとするには良心を締殺《しめころ》さなければならん。課長の鼻息《びそく》を窺《うかが》わなければならん。そんな事は我々には出来んじゃ有りませんか」
「出来なければそれまでじゃ有りませんか」
「サ其処《そこ》です。私には出来ないが、シカシそうしなければ慈母さんがまた悪い顔をなさるかも知れん」
「母が悪い顔をしたッてそんな事は何だけれども……」
「エ、関《かま》わんと仰しゃるのですか」
 ト文三はニコニコと笑いながら問懸けた。
「だッてそうじゃ有りません。貴君《あなた》が貴君の考どおりに進退して良心に対して毫《すこ》しも耻《はず》る所が無ければ、人がどんな貌《かお》をしたッて宜《い》いじゃ有りませんか」
 文三は笑いを停《とど》めて、
「デスガ唯《ただ》慈母さんが悪い顔をなさるばかりならまだ宜いが、或《あるい》はそれが原因と成ッて……貴嬢にはどうかはしらんが……私の為《た》めには尤《もっと》も忌《い》むべき尤も哀《かなし》む可《べ》き結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困まるのです……尤もそんな結果が生ずると生じないとは貴嬢の……貴嬢の……」
 ト云懸けて黙してしまッたが、やがて聞えるか聞えぬ程の小声で、
「心一ツに在る事だけれども……」
 ト云ッて差俯向《さしうつむ》いた、文三の懸けた謎々《なぞなぞ》が解けても解けない風《ふり》をするのか、それともどうだか其所《そこ》は判然しないが、ともかくもお勢は頗《すこぶ》る無頓着な容子《ようす》で、
「私にはまだ貴君の仰しゃる事がよく解りませんよ。何故《なぜ》そう課長さんの所へ往《ゆく》のがお厭《いや》だろう。石田さんの所へ往てお頼みなさるも課長さんの所へ往てお頼みなさるも、その趣は同一じゃ有りませんか」
「イヤ違います」
 ト云ッて文三は首を振揚げた。
「非常な差が有る、石田は私を知ているけれど課長は私を知らないから……」
「そりゃどうだか解りゃしませんやアネ、往て見ない内は」
「イヤそりゃ今までの経験で解ります、そりゃ掩《おお》う可《べか》らざる事実だから何だけれども……それに課長の所へ往こうとすれば、是非とも先《ま》ず本田に依頼をしなければなりません、勿論《もちろん》課長は私も知らない人じゃないけれども……」
「宜いじゃ有りませんか、本田さんに依頼したッて」
「エ、本田に依頼をしろと」
 ト云ッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色《がんしょく》が些し変ッていた。
「命令するのじゃ有りませんがネ、唯依頼したッて宜いじゃ有りませんか、と云うの」
「本田に」
 ト文三はあたかも我耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア」
「あんな卑屈な奴に……課長の腰巾着《こしぎんちゃく》……奴隷《どれい》……」
「そんな……」
「奴隷と云われても耻とも思わんような、犬……犬……犬猫同前な奴に手を杖《つ》いて頼めと仰しゃるのですか」
 ト云ッてジッとお勢の顔を凝視《みつ》めた。
「昨夜《ゆうべ》の事が有るからそれで貴君はそんなに仰しゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃ有りませんワ」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない」
 ト云ッてさも苦々しそうに冷笑《あざわら》いながら顔を背《そむ》けたが、忽《たちま》ちまたキッとお勢の方を振向いて、
「何時《いつ》か貴嬢何と仰しゃッた、本田が貴嬢に対《むか》ッて失敬な情談を言ッた時に……」
「そりゃあの時には厭な感じも起ッたけれども、能《よ》く交際して見ればそんなに貴君のお言いなさるように破廉耻《はれんち》の人じゃ有りませんワ」
 文三は黙然《もくねん》としてお勢の顔を凝視めていた、但《ただ》し宜《よろ》しくない徴候で。
「昨夜《ゆうべ》もアレから下へ降りて、本田さんがアノー『慈母《おっか》さんが聞《きく》と必《きっ》と喧《やか》ましく言出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ』と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイ饒舌《しゃべ》ッて……」
「古狸奴《ふるだぬきめ》、そんな事を言やアがッたか」
「またあんな事を云ッて……そりゃ文さん、貴君が悪いよ。あれ程貴君に罵詈《ばり》されても腹も立てずにやっぱり貴君の利益を思ッて云う者を、それをそんな古狸なんぞッて……そりゃ貴君は温順だのに本田さんは活溌《かっぱつ》だから気が合わないかも知れないけれども、貴君と気の合わないものは皆《みんな》破廉耻と極《きま》ッてもいないから……それを無暗《むやみ》に罵詈して……そんな失敬な事ッて……」
 ト些し顔を※[#「赤+報のつくり」、162−17]《あか》めて口早に云ッた。文三は益々腹立しそうな面相《かおつき》をして、
「それでは何ですか、本田は貴嬢の気に入ッたと云うんですか」
「気に入るも入らないも無いけれども、貴君の云うようなそんな破廉耻な人じゃ有りませんワ……それを古狸なんぞッて無暗に人を罵詈して……」
「イヤ、まず私の聞く事に返答して下さい。弥々《いよいよ》本田が気に入ッたと云うんですか」
 言様が些し烈《はげ》しかッた。お勢はムッとして暫《しば》らく文三の容子をジロリジロリと視《み》ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、貴君の関係した事は無いじゃ有りませんか」
「有るから聞くのです」
「そんならどんな関係が有ります」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要は無い」
「そんなら私も貴君の問に答える必要は有りません」
「それじゃア宜ろしい、聞かなくッても」
 ト云ッて文三はまた顔を背けて、さも苦々しそうに独語《ひとりごと》のように、
「人に問詰められて逃るなんぞと云ッて、実にひ、ひ、卑劣極まる」
「何ですと、卑劣極まると……宜う御座んす、そんな事お言いなさるなら匿《かく》したッて仕様がない、言てしまいます……言てしまいますとも……」
 ト云ッてスコシ胸を突立《つきだ》して、儼然《きッ》として、
「ハイ本田さんは私の気に入りました……それがどうしました」
 ト聞くと文三は慄然《ぶるぶる》と震えた、真蒼《まッさお》に成ッた……暫らくの間は言葉はなくて、唯恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔を凝視《みつ》めていた、その眼縁《まぶち》が見る見るうるみ出した……が忽ちはッと気を取直おして、儼然《きッ》と容《かたち》を改めて、震声《ふるえごえ》で、
「それじゃ……それじゃこうしましょう、今までの事は全然《すッかり》……水に……」
 言切れない、胸が一杯に成て。暫らく杜絶《とぎ》れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう……」
「何です、今までの事とは」
「この場に成てそうとぼけなくッても宜いじゃ有りませんか。寧《いッ》そ別れるものなら……綺麗《きれい》に……別れようじゃ……有りませんか……」
「誰がとぼけています、誰が誰に別れようと云うのです」
 文三はムラムラとした。些し声高《こわだか》に成ッて、
「とぼけるのも好加減になさい、誰が誰に別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情を弄《もてあそ》んで置きながら、今と成て……本田なぞに見返えるさえ有るに、人が穏かに出れば附上《つけあが》ッて、誰が誰に別れるのだとは何の事です」
「何ですと、人の感情を弄んで置きながら……誰が人の感情を弄びました……誰が人の感情を弄びましたよ」
 ト云った時はお勢もうるみ眼に成っていた。文三はグッとお勢の顔を疾視付《にらみつ》けている而已《のみ》で、一語をも発しなかった。
「余《あんまり》だから宜《い》い……人の感情を弄んだの本田に見返ったのといろんな事を云って讒謗《ざんぼう》して……自分の己惚《うぬぼれ》でどんな夢を見ていたって、人の知た事《こッ》ちゃ有りゃしない……」
 トまだ言終らぬ内に文三はスックと起上《たちあが》って、お勢を疾視付《にらみつ》けて、
「モウ言う事も無い聞く事も無い。モウこれが口のきき納めだからそう思ってお出《い》でなさい」
「そう思いますとも」
「沢山……浮気をなさい」
「何ですと」
 ト云った時にはモウ文三は部屋には居なかった。
「畜生……馬鹿……口なんぞ聞いてくれなくッたッて些《ちッ》とも困りゃしないぞ……馬鹿……」
 ト跡でお勢が敵手《あいて》も無いに独りで熱気《やッき》となって悪口《あっこう》を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば」
「文三と喧嘩《けんか》したんだよ……文三の畜生と……」
「どうして」
「先刻《さっき》突然《いきなり》這入ッて来て、今朝|慈母《おッか》さんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜《ゆうべ》慈母さんが言た通りに……」
「コレサ、静かにお言い」
「慈母さんの言た通りに云て勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事を云ッて」
 ト手短かに勿論自分に不利な所はしッかい取除いて次第を咄《はな》して、
「慈母さん、私ア口惜《くや》しくッて口惜しくッてならないよ」
 ト云ッて襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》で泪《なみだ》を拭《ふ》いた。
「フウそうかえ、そんな事を云ッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな
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