ャクシャと腹が立つ。風が宜ければさほどにも思うまいが、風が悪いので尚お一層腹が立つ。油汗を鼻頭《はなさき》ににじませて、下唇《したくちびる》を喰締めながら、暫らくの間|口惜《くちお》しそうに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視《にら》んで黙然としていた。
 お勢が溢《こぼ》れるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッて参ッた。
「ハイ本田さん」
「これはお待遠うさま」
「何ですと」
「エ」
「アノとぼけた顔」
「アハハハハ、シカシ余り遅かッたじゃないか」
「だッて用が有ッたんですもの」
「浮気でもしていやアしなかッたか」
「貴君《あなた》じゃ有るまいシ」
「我輩がそんなに浮気に見えるかネ……ドッコイ『課長さんの令妹』と云いたそうな口付をする。云えば此方《こっち》にも『文さん』ト云う武器が有るから直ぐ返討だ」
「厭な人だネー、人が何にも言わないのに邪推を廻わして」
「邪推を廻わしてと云えば」
 ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、まだ胸に落んか」
「君の云う事は皆|遁辞《とんじ》だ」
「何故」
「そりゃ説明するに及ばん、Self《セルフ》−evident《エヴィデント》 truth《ツルース》 だ」
「アハハハ、とうとう Self−evident truth にまで達したか」
「どうしたの」
「マア聞いて御覧なさい、余程面白い議論が有るから」
 ト云ッてまた文三の方を向いて、
「それじゃその方の口はまず片が附たと。それからしてもう一口の方は何だッけ……そうそう丹治丹治、アハハハ何故丹治と云ッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self−evident truth かネ」
「どうしたの」
「ナニネ、先刻《さっき》我輩が明治年代の丹治と云ッたのが御気色《みけしき》に障ッたと云ッて、この通り顔色まで変えて御立腹だ。貴嬢《あなた》の情夫《いろ》にしちゃア些《ち》と野暮天すぎるネ」
「本田」
 昇は飲かけた「コップ」を下に置いて、
「何でゲス」
「人を侮辱して置きながら、咎《とが》められたと云ッて遁辞を設けて逃るような破廉耻《はれんち》的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕は何にも言うまいが、シカシ最初の『プロポーザル』(申出)より一歩も引く事は出来んから、モウ降りてくれ給え」
「まだそんな事を云ッてるのか、ヤどうも君も驚く可《べ》き負惜しみだな」
「何だと」
「負惜しみじゃないか、君にももう自分の悪かッた事は解ッているだろう」
「失敬な事を云うな、降りろと云ッたら降りたが宜じゃないか」
「モウお罷《よ》しなさいよ」
「ハハハお勢さんが心配し出した。シカシ真《しん》にそうだネ、モウ罷した方が宜い。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見給え、馬鹿気切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に喰わないの、丹治と云ッたが癪《しゃく》に障るのと云ッて絶交する、全《まる》で子供の喧嘩《けんか》のようで、人に対して噺《はな》しも出来ないじゃないか。ネ、オイ笑ッてしまおう」
 文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃ宜ろしい、こうしよう、我輩が謝まろう。全くそうした深い考《かんがえ》が有ッて云ッた訳じゃないから、お気に障ッたら真平《まっぴら》御免下さい。それでよかろう」
 文三はモウ堪え切れない憤《いか》りの声を振上げて、
「降りろと云ッたら降りないか」
「それでもまだ承知が出来ないのか。それじゃ仕様がない、降りよう。今何を言ッても解らない、逆上《のぼせあが》ッているから」
「何だと」
「イヤ此方の事だ。ドレ」
 ト起上《たちあが》る。
「馬鹿」
 昇も些しムッとした趣きで、立止ッて暫らく文三を疾視付《にらみつ》けていたが、やがてニヤリと冷笑《あざわら》ッて、
「フフン、前後忘却の体《てい》か」
 ト云いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起上ッて、不思議そうに文三の容子《ようす》を振反ッて観ながら、これも二階を降りてしまッた。
 跡で文三は悔しそうに歯を喰切《くいしば》ッて、拳《こぶし》を振揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ」
 梯子段《はしごだん》の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞えた。

     第十一回 取付く島

 翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は始終顔を皺《しか》めていて口も碌々《ろくろく》聞かず、文三もその通り。独りお勢|而已《のみ》はソワソワしていて更らに沈着《おちつ》かず、端手《はした》なく囀《さえず》ッて他愛《たわい》もなく笑う。かと思うとフト口を鉗《つぐ》んで真面目《まじめ》に成ッて、憶出《おもいだ》したように額越《ひたえご》しに文三の顔を眺《なが》めて、笑うでも無く笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑《けんのん》そうな奇々妙々な顔色《がんしょく》をする。
 食事が済む。お勢がまず起上《たちあが》ッて坐舗《ざしき》を出て、縁側でお鍋に戯《たわぶ》れて高笑をしたかと思う間も無く、忽《たちま》ち部屋の方で低声《ていせい》に詩吟をする声が聞えた。
 益々顔を皺めながら文三が続いて起上ろうとして、叔母に呼留められて又|坐直《すわりなお》して、不思議そうに恐々《おそるおそる》叔母の顔色を窺《うかが》ッて見てウンザリした。思做《おもいなし》かして叔母の顔は尖《とが》ッている。
 人を呼留めながら叔母は悠々《ゆうゆう》としたもので、まず煙草《たばこ》を環《わ》に吹くこと五六ぷく、お鍋の膳《ぜん》を引終るを見済ましてさて漸《ようや》くに、
「他の事でも有りませんがネ、昨日《きのう》私がマア傍《そば》で聞てれば――また余計なお世話だッて叱《しか》られるかも知れないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断ッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事《こっ》たから、いずれ先に何とか確乎《たしか》な見当《みあて》が無くッてあんな事をお言いなさりゃアすまいネ」
「イヤ何にも見当《みあて》が有ッてのどうのと云う訳じゃ有りませんが、唯《ただ》……」
「ヘー、見当も有りもしないのに無暗《むやみ》に辞《ことわ》ッておしまいなすッたの」
「目的なしに断わると云ッては或《あるい》は無考《むかんがえ》のように聞えるかも知れませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評と云うだけで、ナニモ確に……」
 縁側を通る人の跫音《あしおと》がした。多分お勢が英語の稽古《けいこ》に出懸《でかけ》るので。改ッて外出をする時を除くの外は、お勢は大抵母親に挨拶《あいさつ》をせずして出懸る、それが習慣で。
「確にそうとも……」
「それじゃ何ですか、弥々《いよいよ》となりゃ御布告にでもなりますか」
「イヤそんな、布告なんぞになる気遣いは有りませんが」
「それじゃマア人の噂《うわさ》を宛《あて》にするほか仕様が無いと云ッたようなもんですネ」
「デスガ、それはそうですが、シカシ……本田なぞの言事は……」
「宛にならない」
「イヤそ、そ、そう云う訳でも有りませんが……ウー……シカシ……幾程《いくら》苦しいと云ッて……課長の所へ……」
「何ですとえ、幾程《いくら》苦しいと云ッて課長さんの所《とこ》へは往《い》けないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言てお出《い》でなさるのかえ」
 トお政が層《かさ》に懸ッて極付《きめつ》けかけたので、文三は狼狽《あわ》てて、
「そ、そ、そればかりじゃ有りません……仮令《たとえ》今課長に依頼して復職が出来たと云ッても、とても私《わたくし》のような者は永くは続きませんから、寧《むし》ろ官員はモウ思切ろうかと思います」
「官員はモウ思切る、フン何が何だか理由《わけ》が解りゃしない。この間お前さん何とお言いだ。私がこれからどうして行く積だと聞いたら、また官員の口でも探そうかと思ッてますとお言いじゃなかッたか。それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様《さよう》サ、親の口は干上ッても関《かま》わないから、モウ官員はお罷《や》めなさるが宜いのサ」
「イヤ親の口が干上ッても関わないと云う訳じゃ有りませんが、シカシ官員ばかりが職業でも有りませんから、教師に成ッても親一人位は養えますから……」
「だから誰もそうはならないとは申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫《くるまひき》になと何になとお成《なん》なさるが宜いのサ」
「デスガそう御立腹なすッちゃ私《わたくし》も実に……」
「誰が腹を立《たっ》てると云いました。ナニお前さんがどうしようと此方《こっち》に関繋《くいあい》の無い事だから誰も腹も背も立ちゃしないけれども、唯本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周旋《とりもっ》て貰《もら》ッて課長さんに取入ッて置きゃア、仮令《よし》んば今度の復職とやらは出来ないでも、また先へよって何ぞれ角《か》ぞれお世話アして下さるまいものでも無いトネー、そうすりゃ、お前さんばかしか慈母《おっか》さんも御安心なさる事《こっ》たシ、それに……何だから『三方四方』円く納まる事《こっ》たから(この時文三はフット顔を振揚げて、不思議そうに叔母を凝視《みつ》めた)ト思ッて、チョイとお聞き申したばかしさ。けれども、ナニお前さんがそうした了簡方《りょうけんかた》ならそれまでの事サ」
 両人共|暫《しば》らく無言。
「鍋」
「ハイ」
 トお鍋が襖《ふすま》を開けて顔のみを出した。見れば口をモゴ付かせている。
「まだ御膳《ごぜん》を仕舞わないのかえ」
「ハイ、まだ」
「それじゃ仕舞ッてからで宜《い》いからネ、何時《いつ》もの車屋へ往ッて一人乗|一挺《いっちょう》誂《あつ》らえて来ておくれ、浜町《はまちょう》まで上下《じょうげ》」
「ハイ、それでは只今《ただいま》直《じき》に」
 ト云ッてお鍋が襖を閉切《たてき》るを待兼ねていた文三が、また改めて叔母に向って、
「段々と承ッて見ますと、叔母さんの仰《おっ》しゃる事は一々|御尤《ごもっとも》のようでも有るシ、かつ私《わたくし》一個《ひとり》の強情から、母親《おふくろ》は勿論《もちろん》叔母さんにまで種々《いろいろ》御心配を懸けまして甚《はなは》だ恐入りますから、今一応|篤《とく》と考えて見まして」
「今一応も二応も無いじゃ有りませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めてお出でなさるんだから」
「そ、それはそうですが、シカシ……事に寄ッたら……思い直おすかも知れませんから……」
 お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えて御覧なさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員に成ッておくんなさらなきゃア私どもが立往かないと云うんじゃ無いから、無理に何ですよ、勧めはしませんよ」
「ハイ」
「それから序《ついで》だから言ッときますがネ、聞けば昨夕《ゆうべ》本田さんと何だか入組みなすったそうだけれども、そんな事が有ッちゃ誠に迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友《ともだち》とは云いじょう、今じゃア家《うち》のお客も同前の方だから」
「ハイ」
 トは云ッたが、文三実は叔母が何を言ッたのだかよくは解らなかッた、些《すこ》し考え事が有るので。
「そりゃアア云う胸の広《しろ》い方だから、そんな事が有ッたと云ッてそれを根葉に有《も》ッて周旋《とりもち》をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、全体なら……マアそれは今言ッても無駄《むだ》だ、お前さんが腹を極《き》めてからの事にしよう」
 ト自家|撲滅《ぼくめつ》、文三はフト首を振揚げて、
「ハイ」
「イエネ、またの事にしましょう、と云う事サ」
「ハイ」
 何だかトンチンカンで。
 叔母に一礼して文三が起上ッて、そこそこに部屋へ戻ッて、室《しつ》の中央に突立《つった》ッたままで坐りもせず、良《やや》暫くの間と云うものは造付《つくりつ》けの木偶《にんぎょう》の如くに黙然としていたが、やがて溜息《ためいき》と共に、
「どうしたものだろう」
 ト云ッて、宛然《さながら》雪|達磨《だるま》が日の眼に逢《あ》ッて解けるように、グズグズと崩れながらに坐に着いた。
 何故《なぜ》「どうしたものだろう」かとその理由《ことわけ》を繹《たず》ねて見ると、
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