サア……」
「何方《どっち》の眼で」
「コイツメ」
ト確に起上《たちあが》る真似。
オホホホと笑いを溢《こぼ》しながら、お勢は狼狽《あわ》てて駈出して来て危《あやう》く文三に衝当ろうとして立止ッた。
「オヤ誰……文さん……何時《いつ》帰ッたの」
文三は何にも言わず、ツンとして二階へ上ッてしまッた。
その後《あと》からお勢も続いて上ッて来て、遠慮会釈も無く文三の傍にベッタリ坐ッて、常よりは馴々《なれなれ》しく、しかも顔を皺《しか》めて可笑《おか》しく身体《からだ》を揺りながら、
「本田さんが巫山戯《ふざけ》て巫山戯て仕様がないんだもの」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色《がんしょく》をしてお勢の柳眉《りゅうび》を顰《ひそ》めた嬌面《かお》を疾視付《にらみつ》けたが、恋は曲物《くせもの》、こう疾視付けた時でも尚《な》お「美は美だ」と思わない訳にはいかなかッた。折角の相好《そうごう》もどうやら崩れそうに成ッた……が、はッと心附いて、故意《わざ》と苦々しそうに冷笑《あざわら》いながら率方《そっぽう》を向いてしまッた。
折柄《おりから》梯子段を踏轟《ふみとどろ》かして昇が上ッて来た。ジロリと両人《ふたり》の光景《ようす》を見るや否《いな》や、忽ちウッと身を反らして、さも業山《ぎょうさん》そうに、
「これだもの……大切なお客様を置去りにしておいて」
「だッて貴君《あなた》があんな事をなさるもの」
「どんな事を」
ト言いながら昇は坐ッた。
「どんな事ッて、あんな事を」
「ハハハ、此奴《こいつ》ア宜い。それじゃーあんな事ッてどんな事を、ソラいいたちこッこだ」
「そんなら云ッてもよう御座んすか」
「宜しいとも」
「ヨーシ宜しいと仰《おッ》しゃッたネ、そんなら云ッてしまうから宜い。アノネ文さん、今ネ、本田さんが……」
ト言懸けて昇の顔を凝視《みつ》めて、
「オホホホ、マアかにして上げましょう」
「ハハハ言えないのか、それじゃー我輩が代ッて噺《はな》そう。『今ネ本田さんがネ……』」
「本田さん」
「私の……」
「アラ本田さん、仰しゃりゃー承知しないから宜い」
「ハハハ、自分から言出して置きながら、そうも亭主と云うものは恐《こわ》いものかネ」
「恐かア無いけれども私の不名誉になりますもの」
「何故《なぜ》」
「何故と云ッて、貴君に凌辱《りょうじょく》されたんだもの」
「ヤこれは飛でも無いことを云いなさる、唯チョイと……」
「チョイとチョイと本田さん、敢て一問を呈す、オホホホ。貴方は何ですネ、口には同権論者だ同権論者だと仰しゃるけれども、虚言《うそ》ですネ」
「同権論者でなければ何だと云うんでゲス」
「非同権論者でしょう」
「非同権論者なら」
「絶交してしまいます」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃなアじゃないか、アハハハ。どうしてどうして我輩程熱心な同権論者は恐らくは有るまいと思う」
「虚言《うそ》仰しゃい。譬《たと》えばネ熱心でも、貴君のような同権論者は私ア大嫌《だいきら》い」
「これは御挨拶《ごあいさつ》。大嫌いとは情ない事を仰しゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き」
「どう云うッてアノー、僕の好きな同権論者はネ、アノー……」
ト横眼で天井を眺《なが》めた。
昇が小声で、
「文さんのような」
お勢も小声で、
「Yes《イエス》……」
ト微《かす》かに云ッて、可笑しな身振りをして、両手を貌《かお》に宛《あ》てて笑い出した。文三は愕然《がくぜん》としてお勢を凝視《みつ》めていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨー妬《やけ》ます引[#「引」は小書き右寄せ]羨《うらや》ましいぞ引[#「引」は小書き右寄せ]。どうだ内海、エ、今の御託宣は。『文さんのような人が好きッ』アッ堪《たま》らぬ堪らぬ、モウ今夜|家《うち》にゃ寝られん」
「オホホホホそんな事仰しゃるけれども、文さんのような同権論者が好きと云ッたばかりで、文さんが好きと云わないから宜いじゃ有りませんか」
「その分疏《いいわけ》闇《くら》い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事で御座います」
「オホホホホそんならばネ……アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私が嫌いだから宜《いい》じゃ有りませんか。ネー文さん、そうですネー」
「ヘン嫌いどころか好きも好き、足駄《あしだ》穿《は》いて首ッ丈と云う念の入ッた落《おッ》こちようだ。些《すこ》し水層《みずかさ》が増そうものならブクブク往生しようと云うんだ。ナア内海」
文三はムッとしていて莞爾《にっこり》ともしない。その貌をお勢はチョイと横眼で視て、
「あんまり貴君が戯談《じょうだん》仰しゃるものだから、文さん憤《おこ》ッてしまいなすッたよ」
「ナニまさか嬉《うれ》しいとも云えないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ましたところは内海も仲々好男子だネ、苦味ばしッていて。モウ些しあの顋《あご》がつまると申分がないんだけれども、アハハハハ」
「オホホホ」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横眼で視た。
「シカシそうは云うものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝《ひざ》を叩《たた》いて、
「頗《すこぶ》る付きの別品、しかも実の有るのに想《おも》い附かれて、叔母さんに油を取られたと云ッては保護《ほうご》して貰《もら》い、ヤ何だと云ッては保護して貰う、実に羨ましいネ。明治年代の丹治《たんじ》と云うのはこの男の事だ。焼《やい》て粉《こ》にして飲んでしまおうか、そうしたら些《ちっ》とはあやかるかも知れん、アハハハハ」
「オホホホ」
「オイ好男子、そう苦虫を喰潰《くいつぶ》していずと、些《ちっ》と此方《こっち》を向いてのろけ給《たま》え。コレサ丹治君。これはしたり、御返答が無い」
「オホホホホ」
トお勢はまた作笑いをして、また横眼でムッとしている文三の貌を視て、
「アー可笑しいこと。余《あんま》り笑ッたもんだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へ往ッてお茶を入れましょう」
「マアもう些と御亭主さんの傍《そば》に居て顔を視せてお上げなさい」
「厭《いや》だネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れて茲処《ここ》へ持ッて来ましょうか」
「茶を入れて持て来る実が有るなら寧《いっ》そ水を持ッて来て貰いたいネ」
「水を、お砂糖入れて」
「イヤ砂糖の無い方が宜い」
「そんならレモン入れて来ましょうか」
「レモンが這入《はい》るなら砂糖|気《け》がチョッピリ有ッても宜いネ」
「何だネーいろんな事云ッて」
ト云いながらお勢は起上《たちあが》ッて、二階を降りてしまッた。跡には両人《ふたり》の者が、暫《しば》らく手持|無沙汰《ぶさた》と云う気味で黙然《もくぜん》としていたが、やがて文三は厭に落着いた声で、
「本田」
「エ」
「君は酒に酔ッているか」
「イイヤ」
「それじゃア些《すこ》し聞く事が有るが、朋友《ほうゆう》の交《まじわり》と云うものは互に尊敬していなければ出来るものじゃ有るまいネ」
「何だ、可笑しな事を言出したな。さよう、尊敬していなければ出来ない」
「それじゃア……」
ト云懸けて黙していたが、思切ッて些し声を震わせて、
「君とは暫らく交際していたが、モウ今夜ぎりで……絶交して貰いたい」
「ナニ絶交して貰いたいと……何だ、唐突千万な。何だと云ッて絶交しようと云うんだ」
「その理由は君の胸に聞て貰おう」
「可笑しく云うな、我輩少しも絶交しられる覚えは無い」
「フン覚えは無い、あれ程人を侮辱して置きながら」
「人を侮辱して置きながら。誰が、何時、何と云ッて」
「フフン仕様が無いな」
「君がか」
文三は黙然《もくねん》として暫らく昇の顔を凝視《みつ》めていたが、やがて些し声高《こわだか》に、
「何にもそうとぼけなくッたッて宜いじゃ無いか。君みたようなものでも人間と思うからして、即《すなわ》ち廉耻《れんち》を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら……」
「オイオイオイ、人に物を云うならモウ些《ちっ》と解るように云って貰いたいネ。君一人位友人を失ッたと云ッてそんなに悲しくも無いから、絶交するならしても宜しいが、シカシその理由も説明せずして唯《ただ》無暗《むやみ》に人を侮辱した侮辱したと云うばかりじゃ、ハアそうかとは云ッておられんじゃないか」
「それじゃ何故|先刻《さっき》叔母や|お勢《カズン》のいる前で、僕に『痩《やせ》我慢なら大抵にしろ』と云ッた」
「それがそんなに気に障ッたのか」
「当前《あたりまえ》サ……何故今また僕の事を明治年代の丹治即ち意久地なしと云ッた」
「アハハハ弥々《いよいよ》腹筋《はらすじ》だ。それから」
「事に大小は有ッても理に巨細《こさい》は無い。痩我慢と云ッて侮辱したも丹治と云ッて侮辱したも、帰するところは唯《ただ》一の軽蔑《けいべつ》からだ。既に軽蔑心が有る以上は朋友の交際は出来ないものと認めたからして絶交を申出《プロポーズ》したのだ。解ッているじゃないか」
「それから」
「但《ただ》しこうは云うようなものの、園田の家と絶交してくれとは云わん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母と骨牌《かるた》を取ろうが」
ト云ッて文三冷笑した。
「|お勢《カズン》を芸娼妓《げいしょうぎ》の如く弄《もてあす》ぼうが」
ト云ッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何とも云うまい。だから君もそう落胆イヤ|狼狽《ろうばい》して遁辞《とんじ》を設ける必要も有るまい」
「フフウ|嫉妬《しっと》の原素も雑《まざ》ッている。それから」
「モウこれより外に言う事も無い。また君も何にも言う必要[#「必要」に白丸傍点]も有るまいから、このまま下へ降りて貰いたい」
「イヤ言う必要が有る。冤罪《えんざい》を被《こうぶ》ッてはこれを弁解する必要が有る。だからこのまま下へ降りる事は出来ない。何故痩我慢なら大抵にしろと『忠告』したのが侮辱になる。成程親友でないものにそう直言したならば侮辱したと云われても仕様が無いが、シカシ君と我輩とは親友の関繋《かんけい》じゃ無いか」
「親友の間にも礼義は有る。然《しか》るに君は面と向ッて僕に『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッた。無礼じゃないか」
「何が無礼だ。『痩我慢なら大抵にしろ』と云ッたッけか、『大抵にした方がよかろうぜ』と云ッたッけか、何方《どっち》だッたかモウ忘れてしまッたが、シカシ|何方《どっち》にしろ忠告だ。凡《およ》そ忠告と云う者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告と云う者は、人の所行を非と認めるから云うもので、是《ぜ》と認めて忠告を試みる者は無い。故《ゆえ》に若《も》し非を非と直言したのが侮辱になれば、総《すべて》の忠告と云う者は皆君の所謂《いわゆる》無礼なものだ。若しそれで君が我輩の忠告を怒《いか》るのならば、我輩一言もない、謹《つつしん》で罪を謝そう。がそうか」
「忠告なら僕は却《かえっ》て聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ」
「何故」
「若し忠告なら何故人のいる前で言ッた」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景《ようす》を見て私《ひそ》かに冷笑した。
「内輪な者だけれども、シカシ何にもアア口汚く言わなくッても好じゃないか」
「どうも種々に論鋒《ろんぽう》が変化するから君の趣意が解りかねるが、それじゃア何か、我輩の言方即ち忠告の Manner《マンナア》 が気に喰《く》わんと云うのか」
「勿論《もちろん》 Manner も気に喰《くわ》んサ」
「Manner が気に喰わないのなら改めてお断り申そう。君には侮辱と聞えたかも知れんが我輩は忠告の積りで言ッたのだ、それで宜かろう。それならモウ絶交する必要も有るまい、アハハハ」
文三は何と駁《ばく》して宜いか解らなくなッた、唯ムシ
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