「仕様が無いけれども面白く無いじゃないか」
「トキニ、本田の云事だから宛にはならんが、復職する者が二三人出来るだろうと云う事だが、君はそんな評判を聞いたか」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二三人」
「二三人」
 山口は俄に口を鉗《つぐ》んで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味《やけぎみ》で、
「復職する者が有ッても僕じゃ無い、僕はいかん、課長に憎まれているからもう駄目だ」
 ト云ッてまた暫らく黙考して、
「本田は一等上ッたと云うじゃないか」
「そうだそうだ」
「どうしても事務外の事務の巧《たくみ》なものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノ真似は出来ない」
「誰にも出来ない」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ」
「得意も宜いけれども、人に対《むか》ッて失敬な事を云うから腹が立つ」
 ト云ッてしまッてからアア悪い事を云ッたと気が附いたが、モウ取返しは附かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を」
「エ、ナニ些し……」
「どんな事を」
「ナニネ、本田が今日僕に或人の所へ往ッてお髯《ひげ》の塵《ちり》を払わないかと云ッたから、失敬な事を云うと思ッてピッタリ跳付《はねつ》けてやッたら、痩我慢と云わんばかりに云やアがッた」
「それで君、黙ッていたか」
 ト山口は憤然として眼睛《ひとみ》を据えて、文三の貌を凝視《みつ》めた。
「余程《よっぽど》やッつけて遣ろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴の云う事を取上げるも大人気《おとなげ》ないト思ッて、赦《ゆる》して置てやッた」
「そ、そ、それだから不可《いかん》、そう君は内気だから不可」
 ト苦々しそうに冷笑《あざわら》ッたかと思うと、忽ちまた憤然として文三の貌を疾視《にら》んで、
「僕なら直ぐその場でブン打《なぐ》ッてしまう」
「打《な》ぐろうと思えば訳は無いけれども、シカシそんな疎暴《そぼう》な事も出来ない」
「疎暴だッて関《かま》わんサ、あんな奴《やつ》は時々|打《な》ぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕なら直ぐブン打ッてしまう」
 文三は黙してしまッてもはや弁駁《べんばく》をしなかッたが、暫らくして、
「トキニ君は、何だと云ッて此方《こっち》の方へ来たのだ」
 山口は俄かに何か思い出したような面相《かおつき》をして、
「アそうだッけ……一番町に親類が有るから、この勢でこれから其処へ往ッて金を借りて来ようと云うのだ。それじゃこれで別れよう、些《ち》と遊びに遣ッて来給え。失敬」
 ト自己《おの》が云う事だけを饒舌《しゃべ》り立てて、人の挨拶《あいさつ》は耳にも懸けず急歩《あしばや》に通用門の方へと行く。その後姿を目送《みおく》りて文三が肚の裏《うち》で、
「彼奴《あいつ》まで我《おれ》の事を、意久地なしと云わんばかりに云やアがる」

     第十回 負るが勝

 知己を番町の家に訪えば主人《あるじ》は不在、留守居の者より翻訳物を受取ッて、文三が旧《も》と来た路《みち》を引返して俎橋《まないたばし》まで来た頃はモウ点火《ひとも》し頃で、町家では皆|店頭洋燈《みせランプ》を点《とも》している。「免職に成ッて懐淋《ふところざみ》しいから、今頃帰るに食事をもせずに来た」ト思われるも残念と、つまらぬ所に力瘤《ちからこぶ》を入れて、文三はトある牛店へ立寄ッた。
 この牛店は開店してまだ間もないと見えて見掛けは至極よかッたが、裏《なか》へ這入《はい》ッて見ると大違い、尤《もっと》も客も相応にあッたが、給事の婢《おんな》が不慣れなので迷惑《まごつ》く程には手が廻わらず、帳場でも間違えれば出し物も後《おく》れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々《たまたま》持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂《つい》には肝癪《かんしゃく》を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸《ようや》くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度|難有《ありがとう》御座い」の声を聞流して戸外《おもて》へ出た時には、厄落《やくおと》しでもしたような心地がした。
 両側の夜見世《よみせ》を窺《のぞ》きながら、文三がブラブラと神保町《じんぼうちょう》の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱《はずかし》められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯《ただ》※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]顔《かお》に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
 宿所へ来た。何心なく文三が格子戸《こうしど》を開けて裏《うち》へ這入ると、奥坐舗《おくざしき》の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳《そばだ》てて能《よ》く聞けば、昇の声もその中《うち》に聞える……まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若《も》しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐《しき》りに胸が浪《なみ》だつ。暫《しば》らく鵠立《たたずん》でいて、度胸を据《す》えて、戦争が初まる前の軍人の如くに思切ッた顔色《がんしょく》をして、文三は縁側へ廻《めぐ》り出た。
 奥坐舗を窺いて見ると、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》と取散らしてある中に、昇が背なかに円《まろ》く切抜いた白紙《しらかみ》を張られてウロウロとして立ている、その傍《そば》にお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、が、お政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」ト云う者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三が憤々《ぷりぷり》しながらそのままにして行過ぎてしまうと、忽《たちま》ち後《うしろ》の方で、
(昇)「オヤこんな悪戯《いたずら》をしたネ」
(勢)「アラ私じゃ有りませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ」
(鍋)「アラお嬢さまですよ、オホホホホ」
(昇)「誰も彼も無い、二人共|敵手《あいて》だ。ドレまずこの肥満奴《ふとっちょ》から」
(鍋)「アラ私《わたくし》じゃ有りませんよ、オホホホホ。アラ厭《いや》ですよ……アラー御新造《ごしんぞ》さアん引[#「引」は小書き右寄せ]」
 ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタと云う足音も聞えた、オホホホと云う笑声も聞えた、お勢の荐《しき》りに「引掻《ひっかい》てお遣《や》りよ、引掻て」ト叫喚《わめ》く声もまた聞えた。
 騒動《さわぎ》に気を取られて、文三が覚えず立止りて後方《うしろ》を振向く途端に、バタバタと跫音《あしおと》がして、避ける間もなく誰だかトンと文三に衝当《つきあた》ッた。狼狽《あわて》た声でお政の声で、
「オー危ない……誰だネーこんな所《とこ》に黙ッて突立ッてて」
「ヤ、コリャ失敬……文三です……何処《どこ》ぞ痛めはしませんでしたか」
 お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ這入りて跡ピッシャリ。恨めしそうに跡を目送《みおく》ッて文三は暫らく立在《たたずん》でいたが、やがて二階へ上ッて来て、まず手探りで洋燈《ランプ》を点じて机辺《つくえのほとり》に蹲踞《そんこ》してから、さて、
「実に淫哇《みだら》だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格々々と口癖に云ッているお勢が、あんな猥褻《わいせつ》な席に連《つらな》ッている……しかも一所に成ッて巫山戯《ふざけ》ている……平生の持論は何処へ遣ッた、何の為《た》めに学問をした、|先自侮而後人侮[#レ]之《まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる》、その位の事は承知しているだろう、それでいてあんな真似を……実に淫哇《みだら》だ。叔父の留守に不取締《ふとりしまり》が有ッちゃ我《おれ》が済まん、明日《あした》厳しく叔母に……」
 トまでは調子に連れて黙想したが、ここに至ッてフト今の我身を省みてグンニャリと萎《しお》れてしまい、暫らくしてから「まずともかくも」ト気を替えて、懐中して来た翻訳物を取出して読み初めた。
[#ここから1字下げ]
 The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical party. For over fifty years the party……
[#ここで字下げ終わり]
 ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口を鉗《つぐ》んで、
「チョッ失敬極まる。我《おれ》の帰ッたのを知ッていながら、何奴《どいつ》も此奴《こいつ》も本田一人の相手に成ッてチヤホヤしていて、飯を喰ッて来たかと云う者も無い……アまた笑ッた、アリャお勢だ……弥々《いよいよ》心変りがしたならしたと云うが宜《いい》、切れてやらんとは云わん。何の糞《くそ》、我《おれ》だッて男児だ、心変《こころがわり》のした者に……」
 ハッと心附《こころづい》て、また一|越《おつ》調子高に、
[#ここから1字下げ]
 The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political……
[#ここで字下げ終わり]
 フト格子戸の開く音がして笑い声がピッタリ止ッた。文三は耳を聳《そばだ》てた。※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《いそが》わしく縁側を通る人の足音がして、暫らくすると梯子段《はしごだん》の下で洋燈をどうとかこうとか云うお鍋の声がしたが、それから後は粛然《ひっそ》として音沙汰《おとさた》をしなくなった。何となく来客でもある容子《ようす》。
 高笑いの声がする内は何をしている位は大抵想像が附たからまず宜かッたが、こう静《しずま》ッて見るとサア容子が解らない。文三|些《すこ》し不安心に成ッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければ可《よ》し、有れば傍に附てはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
 キット思付いた、イヤ憶出《おもいいだ》した事が有る。今初まッた事では無いが、先刻から酔醒めの気味で咽喉《のど》が渇く。水を飲めば渇《かわき》が歇《と》まるが、シカシ水は台所より外には無い。しこうして台所は二階には附いていない。故《ゆえ》に若し水を飲まんと欲せば、是非とも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているも馬鹿気ている」ト種々《さまざま》に分疏《いいわけ》をして、文三は遂《つい》に二階を降りた。
 台所へ来て見ると、小洋燈《こランプ》が点《とぼ》しては有るがお鍋は居ない。皿|小鉢《こばち》の洗い懸けたままで打捨てて有るところを見れば、急に用が出来て遣《つかい》にでも往たものか。「奥坐舗は」と聞耳を引立てれば、ヒソヒソと私語《ささや》く声が聞える。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞取れない。ソコで竊《ぬす》むが如くに水を飲んで、抜足をして台所を出ようとすると、忽ち奥坐舗の障子がサッと開いた。文三は振反《ふりかい》ッて見て覚えず立止ッた。お勢が開懸《あけか》けた障子に掴《つか》まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯|此方《こっち》へ背を向けて立在《たたず》んだままで坐舗の裏《うち》を窺《のぞ》き込んでいる。
「チョイと茲処《ここ》へお出《い》で」
 ト云うは慥《たしか》に昇の声。お勢はだらしもなく頭振《かぶ》りを振りながら、
「厭サ、あんな事をなさるから」
「モウ悪戯《いたずら》しないからお出でと云えば」
「厭」
「ヨーシ厭と云ッたネ」
「真個《ほんと》か、其処《そこ》へ往《い》きましょうか」
 ト、チョイと首を傾《かし》げた。
「ア、お出で、サア……
前へ 次へ
全30ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング