め》と退《しりぞ》くは残念、何か云ッて遣りたい、何かコウ品の好《い》い悪口雑言、一|言《ごん》の下《もと》に昇を気死《きし》させる程の事を云ッて、アノ鼻頭《はなづら》をヒッ擦《こす》ッて、アノ者面《しゃッつら》を※[#「赤+報のつくり」、117−7]《あか》らめて……」トあせるばかりで凄《すご》み文句は以上見附からず、そしてお勢を視れば、尚《な》お文三の顔を凝視めている……文三は周章狼狽《どぎまぎ》とした……
「モウそ……それッきりかネ」
 ト覚えず取外して云って、我ながら我音声の変ッているのに吃驚《びっくり》した。
「何が」
 またやられた。蒼《あお》ざめた顔をサッと※[#「赤+報のつくり」、117−12]らめて文三が、
「用事は……」
「ナニ用事……ウー用事か、用事と云うから判《わか》らない……さよう、これッきりだ」
 モウ席にも堪えかねる。黙礼するや否《いな》や文三が蹶然《けつぜん》起上《たちあが》ッて坐舗を出て二三歩すると、後《うしろ》の方でドッと口を揃《そろ》えて高笑いをする声がした。文三また慄然《ぶるぶる》と震えてまた蒼ざめて、口惜《くちお》しそうに奥の間の方を睨詰《にらみつ》めたまま、暫らくの間|釘付《くぎづ》けに逢《あ》ッたように立在《たたずん》でいたが、やがてまた気を取直おして悄々《すごすご》と出て参ッた。
 が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂《げっこう》したのをば無理無体に圧着《おしつ》けた為めに、発しこじれて内攻して胸中に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》鬱積する、胸板が張裂ける、腸《はらわた》が断絶《ちぎ》れる。
 無念々々、文三は耻辱《ちじょく》を取ッた。ツイ近属《ちかごろ》と云ッて二三日前までは、官等に些《ち》とばかりに高下は有るとも同じ一課の局員で、優《まさ》り劣りが無ければ押しも押されもしなかッた昇如き犬自物《いぬじもの》の為めに耻辱を取ッた、然《しか》り耻辱を取ッた。シカシ何の遺恨が有ッて、如何《いか》なる原因が有ッて。
 想《おも》うに文三、昇にこそ怨《うらみ》はあれ、昇に怨みられる覚えは更にない。然るに昇は何の道理も無く何の理由も無く、あたかも人を辱《はずかし》める特権でも有《もっ》ているように、文三を土芥《どかい》の如くに蔑視《みくだ》して、犬猫の如くに待遇《とりあつか》ッて、剰《あまつさ》え叔母やお勢の居る前で嘲笑《ちょうしょう》した、侮辱した。
 復職する者が有ると云う役所の評判も、課長の言葉に思当る事が有ると云うも、昇の云う事なら宛《あて》にはならぬ。仮令《よし》それ等は実説にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢すると云う昇が、自家《じぶん》の利益を賭物《かけもの》にして他人の為めに周旋しようと云う、まずそれからが呑込めぬ。
 仮りに一歩を譲ッて、全く朋友《ほうゆう》の信実心からあの様な事を言出したとしたところで、それならそれで言様《いいよう》が有る。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦《れいていこく》、みすぼらしい身に成ッたと云ッて文三を見括《みくび》ッて、失敬にも無礼にも、復職が出来たらこの上が無かろうト云ッた。
 それも宜しいが、課長は昇の為めに課長なら、文三の為めにもまた課長だ。それを昇は、あだかも自家《うぬ》一個《ひとり》の課長のように、課長々々とひけらかして、頼みもせぬに「一|臂《び》の力を仮してやろう、橋渡しをしてやろう」と云ッた。
 疑いも無く昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕《ぬぼく》に措く如き信用を得ていると云ッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己《うぬ》一個《ひとり》で鼻に掛けて、己《うぬ》一個《ひとり》でひけらかして、己《うぬ》と己《うぬ》が愚《ぐ》を披露《ひろう》している分の事なら空家で棒を振ッたばかり、当り触りが無ければ文三も黙ッてもいよう、立腹もすまいが、その三文信用を挟《さしはさ》んで人に臨んで、人を軽蔑して、人を嘲弄《ちょうろう》して、人を侮辱するに至ッては文三腹に据《す》えかねる。
 面と向ッて図《ず》大柄《おおへい》に、「痩我慢なら大抵にしろ」と昇は云ッた。
 痩我慢々々々、誰が痩我慢していると云ッた、また何を痩我慢していると云ッた。
 俗務をおッつくねて、課長の顔色を承《う》けて、強《しい》て笑ッたり諛言《ゆげん》を呈したり、四《よつ》ン這《ばい》に這廻わッたり、乞食《こつじき》にも劣る真似をして漸《ようや》くの事で三十五円の慈恵金《じえきん》に有附いた……それが何処《どこ》が栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈な真似は出来ぬ。それを昇は、お政如き愚痴無知の婦人に持長《もちちょう》じられると云ッて、我程《おれほど》働き者はないと自惚《うぬぼれ》てしまい、しかも廉潔《れんけつ》な心から文三が手を下げて頼まぬと云えば、嫉《ねた》み妬《そね》みから負惜しみをすると臆測《おくそく》を逞《たくましゅ》うして、人も有ろうにお勢の前で、
「痩我慢なら大抵にしろ」
 口惜しい、腹が立つ。余《よ》の事はともかくも、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて、手出《てだし》もしなかッた」
 ト何処でか異《おつ》な声が聞えた。
「手出がならなかッたのだ、手出がなっても為得《しえ》なかッたのじゃない」
 ト文三|憤然《やっき》として分疏《いいわけ》を為出《しだ》した。
「我《おれ》だッて男児だ、虫も有る胆気も有る。昇なんぞは蚊蜻蛉《かとんぼ》とも思ッていぬが、シカシあの時|憖《なま》じ此方《こっち》から手出をしては益々向うの思う坪に陥《はま》ッて玩弄《がんろう》されるばかりだシ、かつ婦人の前でも有ッたから、為難《しにく》い我慢もして遣ッたんだ」
 トは知らずしてお勢が、怜悧《れいり》に見えても未惚女《おぼこ》の事なら、蟻《あり》とも螻《けら》とも糞中《ふんちゅう》の蛆《うじ》とも云いようのない人非人、利の為《た》めにならば人糞をさえ甞《な》めかねぬ廉耻《れんち》知らず、昇如き者の為めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々《おめおめ》として退《しりぞ》いたのを視て、或《あるい》は不甲斐《ふがい》ない意久地が無いと思いはしなかッたか……仮令《よし》お勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、耻《はず》かしい……
「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ」
 ト憤然《やっき》として文三が拳を握ッて歯を喰切《くいしば》ッて、ハッタとばかりに疾視付《にらみつ》けた。疾視付けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長《せたけ》を眼分量に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方《あちら》の方へと巡行して往ッた。
 愕然《がくぜん》として文三が、夢の覚めたような面相《かおつき》をしてキョロキョロと四辺《あたり》を環視《みま》わして見れば、何時《いつ》の間にか靖国《やすくに》神社の華表際《とりいぎわ》に鵠立《たたずん》でいる。考えて見ると、成程|俎橋《まないたばし》を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微《かすか》に残ッている。
 乃《すなわ》ち社内へ進入《すすみい》ッて、左手の方の杪枯《うらが》れた桜の樹の植込みの間へ這入ッて、両手を背後に合わせながら、顔を皺《しか》めて其処此処《そこここ》と徘徊《うろつ》き出した。蓋《けだ》し、尋ねようと云う石田の宿所は後門《うらもん》を抜ければツイ其処では有るが、何分にも胸に燃す修羅苦羅《しゅらくら》の火の手が盛《さかん》なので、暫らく散歩して余熱《ほとぼり》を冷ます積りで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ」
 ト文三が徘徊《うろつ》きながら愚痴を溢《こぼ》し出した。
「現在自分の……我《おれ》が、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた……平気で人の顔を視ていた……」
「しかも立際に一所に成ッて高笑いをした」ト無慈悲な記臆が用捨なく言足《いいたし》をした。
「そうだ高笑いをした……シテ見れば弥々《いよいよ》心変りがしているかしらん……」
 ト思いながら文三が力無さそうに、とある桜の樹の下《もと》に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛へ腰を掛ける、と云うよりは寧《むし》ろ尻餅《しりもち》を搗《つ》いた。暫らくの間は腕を拱《く》んで、顋《あご》を襟《えり》に埋《うず》めて、身動きをもせずに静《しずま》り返ッて黙想していたが、忽《たちま》ちフッと首を振揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想《あいそ》を尽かさして……そして自家《じぶん》の方に靡《な》びかそうと思ッて……それで故意《わざ》と我《おれ》を……お勢のいる処で我を……そういえばアノ言様《いいざま》、アノ……お勢を視た眼付き……コ、コ、コリャこのままには措けん……」
 ト云ッて文三は血相を変えて突起上《つったちあが》ッた。
 がどうしたもので有ろう。
 何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通り有る、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度《かいりょうたいど》だからだぞ、無気力だからでは無いぞ」ト口で言わんでも行為《ぎょうい》で見付《みせつ》けて、昇の胆《たん》を褫《うば》ッて、叔母の睡《ねぶり》を覚まして、若し愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買戻して、そして……そして……自分も実に胆気が有ると……確信して見たいが、どうしたもので有ろう。
 思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断然絶交する……イヤイヤ昇も仲々|口強馬《くちごわうま》、舌戦は文三の得策でない。と云ッてまさか腕力に訴える事も出来ず、
「ハテどうしてくれよう」
 ト殆《ほと》んど口へ出して云いながら、文三がまた旧《もと》の腰掛に尻餅を搗いて熟々《つくづく》と考込んだまま、一時間ばかりと云うものは静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君」
 ト云う声が頭上《とうじょう》に響いて、誰だか肩を叩《たた》く者が有る。吃驚《びっくり》して文三がフッと貌《かお》を振揚げて見ると、手摺《てず》れて垢光《あかびか》りに光ッた洋服、しかも二三カ所|手痍《てきず》を負うた奴を着た壮年の男が、余程|酩酊《めいてい》していると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿《じゅくし》臭い香《におい》をさせながら、何時の間にか目前に突立ッていた。これは旧《も》と同僚で有ッた山口|某《なにがし》という男で、第一回にチョイト噂《うわさ》をして置いたアノ山口と同人で、やはり踏外し連の一人。
「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ」
「ハハハ一別以来か」
「大分|御機嫌《ごきげん》のようだネ」
「然り御機嫌だ。シカシ酒でも飲まんじゃー堪《たま》らん。アレ以来今日で五日になるが、毎日酒浸しだ」
 ト云ッてその証拠立の為めにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「何故《なぜ》またそう Despair《デスペヤ》 を起したもんだネ」
「Despair じゃー無いが、シカシ君面白く無いじゃーないか。何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッてあんな庸劣《やくざ》な奴ばかりを撰《えら》んで残したのだろう、その理由が聞いて見たいネ」
 ト真黒に成ッてまくし立てた。その貌を見て、傍《そば》を通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は些《すこ》し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー……」
「些し小いさな声で咄《はな》し給《たま》え、人に聞える」
 ト気を附けられて俄《にわか》に声を低めて、
「事務に懸けちゃこう云やア可笑《おか》しいけれども、跡に残ッた奴等に敢《あえ》て多くは譲らん積りだ。そうじゃないか」
「そうとも」
「そうだろう」
 ト乗地《のりじ》に成ッて、
「然るに唯《ただ》一種事務外の事務を勉励しないと云ッて我々共を追出した、面白く無いじゃないか」
「面白く無いけれども、シカシ幾程《いくら》云ッても仕様が無いサ」

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