、、ネそうでしょう、オホホホ。当ッたもんだから黙ッてしまッて」
「そんな気楽じゃ有りません。今日母の所から郵便が来たから読《よん》で見れば、私のこういう身に成ッたを心配して、この頃じゃ茶断して願掛けしているそうだシ……」
「茶断して、慈母さんが、オホホホ。慈母さんもまだ旧弊だ事ネー」
 文三はジロリとお勢を尻眼《しりめ》に懸けて、恨めしそうに、
「貴嬢《あなた》にゃ可笑《おか》しいか知らんが私《わたくし》にゃさっぱり可笑しく無い。薄命とは云いながら私の身が定《きま》らんばかりで、老耋《としよ》ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分……耐《たま》らない。それに慈母さんも……」
「また何とか云いましたか」
「イヤ何とも仰《おっ》しゃりはしないが、アレ以来始終|気不味《きまず》い顔ばかりしていて打解けては下さらんシ……それに……それに……」
「貴嬢《あなた》も」ト口頭《くちさき》まで出たが、どうも鉄面皮《あつかま》しく嫉妬《じんすけ》も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く身を定《き》めなければ成らぬと思ッて、今も石田の所へ往ッて頼んでは来ましたが、シカシこれとても宛にはならんシ、実に……弱りました。唯私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定《きま》らぬ為めに『方々《ほうぼう》』が我他彼此《がたぴし》するので誠に困る」
 ト萎《しお》れ返ッた。
「そうですネー」
 ト今まで冴《さ》えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて、共に気をめいらしてしまい、暫らくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さな欠伸《あくび》をして、
「アア寐《ね》むく成ッた、ドレもう往ッて寐ましょう。お休みなさいまし」
 ト会釈《えしゃく》をして起上《たちあが》ッてフト立止まり、
「アそうだッけ……文さん、貴君はアノー課長さんの令妹《おいもとご》を御存知」
「知りません」
「そう、今日ネ、団子坂でお眼に懸ッたの。年紀《とし》は十六七でネ、随分|別品《べっぴん》は……別品だッたけれども、束髪の癖にヘゲル程|白粉《おしろい》を施《つ》けて……薄化粧なら宜けれども、あんなに施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好気なもんだ、また噺込《はなしこ》んでいる積りだと見えるよ。お休みなさいまし」
 ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまッた。
 縁側で唯今帰ッたばかりの母親に出逢ッた。
「お勢」
「エ」
「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ」
 また始まッたと云ッたような面相《かおつき》をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎《へや》へ這入《はい》ッてしまッた。
 さて子舎へ這入ッてからお勢は手疾《てばや》く寐衣《ねまき》に着替えて床へ這入り、暫らくの間|臥《ね》ながら今日の新聞を覧《み》ていたが……フト新聞を取落した。寐入ッたのかと思えばそうでもなく、眼はパッチリ視開《みひら》いている、その癖静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「何故《なぜ》アア不活溌《ふかっぱつ》だろう」
 ト口へ出して考えて、フト両足《りょうそく》を蹈延《ふみの》ばして莞然《にっこり》笑い、狼狽《あわ》てて起揚《おきあが》ッて枕頭《まくらもと》の洋燈《ランプ》を吹消してしまい、枕に就いて二三度|臥反《ねかえ》りを打ッたかと思うと間も無くスヤスヤと寐入ッた。

     第九回 すわらぬ肚《はら》

 今日は十一月四日、打続いての快晴で空は余残《なごり》なく晴渡ッてはいるが、憂愁《うれい》ある身の心は曇る。文三は朝から一室《ひとま》に垂籠《たれこ》めて、独り屈托《くったく》の頭《こうべ》を疾《や》ましていた。実は昨日《きのう》朝飯《あさはん》の時、文三が叔母に対《むかっ》て、一昨日《おととい》教師を番町に訪うて身の振方を依頼して来た趣を縷々《るる》咄《はな》し出したが、叔母は木然《ぼくぜん》として情|寡《すくな》き者の如く、「ヘー」ト余所事《よそごと》に聞流していてさらに取合わなかッた、それが未《いま》だに気になって気になってならないので。
 一時頃に勇《いさみ》が帰宅したとて遊びに参ッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押、坐相撲《すわりずもう》の噺《はなし》、体操、音楽の噂《うわさ》、取締との議論、賄方《まかないかた》征討の義挙から、試験の模様、落第の分疏《いいわけ》に至るまで、凡《およ》そ偶然に懐《むね》に浮んだ事は、月足らずの水子《みずこ》思想、まだ完成《まとまっ》ていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着《とんじゃく》はない、訥弁《とつべん》ながらやたら無性に陳《なら》べ立てて返答などは更に聞ていぬ。文三も最初こそ相手にも成ていたれ、遂《つい》にはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意に空気を鼓動さして置いて、自分は自分で余所事《よそごと》を、と云たところがお勢の上や身の成行で、熟思黙想しながら、折々|間外《まはず》れな溜息《ためいき》噛交《かみま》ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段《はしごだん》を上《のぼ》ッて来て、中途から貌《かお》而已《のみ》を差出して、
「勇」
「だから僕《ぼか》ア議論して遣《や》ッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。『ボート』の順番を『クラッス』(級)の順番で……」
「勇と云えば。お前の耳は木くらげかい」
「だから何だと云ッてるじゃ無いか」
「綻《ほころび》を縫てやるからシャツをお脱ぎとよ」
 勇はシャツを脱ぎながら、
「『クラッス』の順番で定《き》めると云うんだもの、『ボート』の順番を『クラッス』の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、『ボート』は……」
「さッさとお脱ぎで無いかネー、人が待ているじゃ無いか」
「そんなに急がなくッたッて宜《いい》やアネ、失敬な」
「誰方《どっち》が失敬だ……アラあんな事言ッたら尚《な》お故意《わざ》と愚頭々々《ぐずぐず》しているよ。チョッ、ジレッタイネー、早々《さっさ》としないと姉さん知らないから宜《い》い」
「そんな事云うなら Bridle《ブライドル》 path《パッス》 と云う字を知てるか、I《アイ》 was《ウォズ》 at《エット》 our《アワー》 uncle's《アンクルス》 ト云う事知てるか、I《アイ》 will《ウィル》 keep《キープ》 your《ユアー》……」
「チョイとお黙り……」
 ト口早に制して、お勢が耳を聳《そばだ》てて何か聞済まして、忽《たちま》ち満面に笑《わらい》を含んでさも嬉《うれ》しそうに、
「必《きっ》と本田さんだよ」
 ト言いながら狼狽《あわ》てて梯子段《はしごだん》を駈下《かけお》りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往《いっ》ちまッた。渠奴《あいつ》近頃生意気になっていかん。先刻《さっき》も僕ア喧嘩《けんか》して遣たんだ。婦人《おんな》の癖に園田勢子と云う名刺《なふだ》を拵《こし》らえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤《おこ》ッたッけ」
「アハハハハ」
 ト今まで黙想していた文三が突然無茶苦茶に高笑を做出《しだ》したが、勿論《もちろん》秋毫《すこし》も可笑《おか》しそうでは無かッた。シカシ少年の議論家は称讃《しょうさん》されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人の癖にいかん、生意気で」
 ト云いながら得々として二階を降りて往た。跡で文三は暫《しば》らくの間また腕を拱《く》んで黙想していたが、フト何か憶出《おもいだ》したような面相《かおつき》をして、起上《たちあが》ッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
 奥の間の障子を開けて見ると、果して昇が遊《あそび》に来ていた。しかも傲然《ごうぜん》と火鉢《ひばち》の側《かたわら》に大胡坐《おおあぐら》をかいていた。その傍《そば》にお勢がベッタリ坐ッて、何かツベコベと端手《はした》なく囀《さえず》ッていた。少年の議論家は素肌《すはだ》の上に上衣《うわぎ》を羽織ッて、仔細《しさい》らしく首を傾《かし》げて、ふかし甘薯《いも》の皮を剥《む》いてい、お政は囂々《ぎょうぎょう》しく針箱を前に控えて、覚束《おぼつか》ない手振りでシャツの綻《ほころび》を縫合わせていた。
 文三の顔を視《み》ると、昇が顔で電光《いなびかり》を光らせた、蓋《けだ》し挨拶《あいさつ》の積《つもり》で。お勢もまた後方《うしろ》を振反ッて顧《み》は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相《かおつき》をして、急にまた彼方《あちら》を向いてしまッて、
「真個《ほんとう》」
 ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視《みつ》めた光景《ようす》。
「真個さ」
「虚言《うそ》だと聴きませんよ」
 アノ筋の解らない他人の談話《はなし》と云う者は、聞いて余り快くは無いもので。
「チョイと番町まで」ト文三が叔母に会釈《えしゃく》をして起上《たちあが》ろうとすると、昇が、
「オイ内海、些《すこ》し噺が有る」
「些《ち》と急ぐから……」
「此方《こっち》も急ぐんだ」
 文三はグット視下ろす、昇は視上げる、眼と眼を疾視合《にらみあ》わした、何だか異《おつ》な塩梅《あんばい》で。それでも文三は渋々ながら坐舗《ざしき》へ這入《はい》ッて坐に着いた。
「他の事でも無いんだが」
 ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。スルトお政はフト針仕事の手を止《とど》めて不思議そうに昇の貌《かお》を凝視《みつ》めた。
「今日役所での評判に、この間免職に成た者の中《うち》で二三人復職する者が出来るだろうと云う事だ。そう云やア課長の談話に些し思当る事も有るから、或《あるい》は実説だろうかと思うんだ。ところで我輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんは勿論お勢さんも……」
 ト云懸けてお勢を尻眼《しりめ》に懸けてニヤリと笑ッた。お勢はお勢で可笑《おか》しく下唇《したくちびる》を突出して、ムッと口を結んで、額《ひたえ》で昇を疾視付《にらみつ》けた。イヤ疾視付ける真似《まね》をした。
「お勢さんも非常に心配してお出《い》でなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊《あす》んでいて食えると云う身分でも有るまいシするから、若《も》し復職が出来ればこの上も無いと云ッたようなもんだろう。ソコデ若し果してそうならば、宜《よろ》しく人の定《きま》らぬ内に課長に呑込《のみこ》ませて置く可《べ》しだ。がシカシ君の事《こっ》たから今更|直付《じかづ》けに往《い》き難《にく》いとでも思うなら、我輩一|臂《ぴ》の力を仮しても宜しい、橋渡《はしわたし》をしても宜しいが、どうだお思食《ぼしめし》は」
「それは御信切……難有《ありがた》いが……」
 ト言懸けて文三は黙してしまった。迷惑は匿《かく》しても匿し切れない、自《おのずか》ら顔色《がんしょく》に現われている。モジ付く文三の光景《ようす》を視て昇は早くもそれと悟ッたか、
「厭《いや》かネ、ナニ厭なものを無理に頼んで周旋しようと云うんじゃ無いから、そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ……痩《やせ》我慢なら大抵にして置く方が宜かろうぜ」
 文三は血相を変えた……
「そんな事|仰《おっ》しゃるが無駄《むだ》だよ」
 トお政が横合から嘴《くちばし》を容《い》れた。
「内の文さんはグッと気位が立上ってお出でだから、そんな卑劣《しれつ》な事ア出来ないッサ」
「ハハアそうかネ、それは至極お立派な事《こっ》た。ヤこれは飛《とん》だ失敬を申し上げました、アハハハ」
 ト聞くと等しく文三は真青《まっさお》に成ッて、慄然《ぶるぶる》と震え出して、拳《こぶし》を握ッて歯を喰切《くいしば》ッて、昇の半面をグッと疾視付《にらみつ》けて、今にもむしゃぶり付きそうな顔色をした……が、ハッと心を取直して、
「エヘヘヘヘ」
 何となく席がしらけた。誰も口をきかない。勇がふかし甘薯《いも》を頬張《ほおば》ッて、右の頬を脹《ふく》らませながら、モッケな顔をして文三を凝視《みつ》めた。お勢もまた不思議そうに文三を凝視めた。
「お勢が顔を視ている……このままで阿容々々《おめお
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