ч}だ……モウ些《ちっ》と彼地《あっち》の方へ行て見ようじゃ有りませんか」
「漸《ようや》くの思いで一所に物観遊山に出るとまでは漕付《こぎつけ》は漕付たけれども、それもほんの一所に歩く而已《のみ》で、慈母《おっか》さんと云うものが始終|傍《そば》に附ていて見れば思う様に談話《はなし》もならず」
「慈母さんと云えば何を做《し》ているんだろうネー」
ト背後《うしろ》を振返ッて観た。
「偶《たまたま》好機会が有ッて言出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ」
ト愚痴ッぽくいッた。
「厭ですよ、そんな戯談を仰しゃッちゃ」
ト云ッてお勢が莞爾々々《にこにこ》と笑いながら此方《こちら》を振向いて視て、些《すこ》し真面目《まじめ》な顔をした。昇は萎《しお》れ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填《う》まらない、こう言出すまでにはどの位苦しんだと思いなさる」
ト昇は歎息した。お勢は眼睛《め》を地上に注いで、黙然《もくねん》として一語をも吐かなかッた。
「こう言出したと云ッて、何にも貴嬢《あなた》に義理を欠かして私《わたくし》の望《のぞみ》を遂げようと云うのじゃア無いが、唯貴嬢の口から僅《たッた》一言、『断念《あきら》めろ』と云ッて戴《いただ》きたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもう貴嬢にもお眼に懸るまい……ネーお勢さん」
お勢は尚お黙然としていて返答をしない。
「お勢さん」
ト云いながら昇が項垂《うなだ》れていた首を振揚げてジッとお勢の顔を窺《のぞ》き込めば、お勢は周章狼狽《どぎまぎ》してサッと顔を※[#「赤+報のつくり」、96−9]《あか》らめ、漸く聞えるか聞えぬ程の小声で、
「虚言《うそ》ばッかり」
ト云ッて全く差俯向《さしうつむ》いてしまッた。
「アハハハハハ」
ト突如《だしぬけ》に昇が轟然《ごうぜん》と一大笑を発したので、お勢は吃驚《びっくり》して顔を振揚げて視て、
「オヤ厭だ……アラ厭だ……憎らしい本田さんだネー、真面目くさッて人を威《おど》かして……」
ト云ッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、謂《い》わば気まりが悪るそうに莞爾《にっこり》笑ッた。
「お巫山戯《ふざけ》でない」
ト云う声が忽然《こつぜん》背後《うしろ》に聞えたのでお勢が喫驚《びっくり》して振返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入を挿《はさ》みながら来る。
「大分《だいぶ》談判が難《むずかし》かッたと見えますネ」
「大きにお待ち遠うさま」
ト云ッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真赤にして」
ト咎《とが》められてお勢は尚お顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖《あった》かに成ッたもんだから……」
「マア本田さん聞ておくんなさい、真個《ほんと》にあの児の銭遣《ぜにづか》いの荒いのにも困りますよ。此間《こないだ》ネ試験の始まる前に来て、一円前借して持ッてッたんですよ。それを十日も経たない内にもう使用《つか》ッちまって、またくれろサ。宿所《うち》ならこだわりを附けてやるんだけれども……」
「あんな事を云ッて虚言《うそ》ですよ、慈母《おっか》さんが小遣いを遣りたがるのよ、オホホホ」
ト無理に押出したような高笑をした。
「黙ッてお出で、お前の知ッた事《こっ》ちゃない……こだわりを附けて遣るんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出して遣ッたら、それんばかじゃ足らないから一円くれろと云うんですよ。そうそうは方図が無いと思ッてどうしても遣らなかッたらネ、不承々々に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日《あさって》お友達同志寄ッて飛鳥山《あすかやま》で饂飩会《うどんかい》とかを……」
「オホホホ」
この度《たび》は真に可笑しそうにお勢が笑い出した。昇は荐《しき》りに点頭《うなず》いて、
「運動会」
「そのうんどうかいとか蕎麦《そば》買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日《あした》取りにお出でと云ッても何と云ッても聞かずに持ッて往きましたがネ。それも宜いが、憎い事を云うじゃ有りませんか。私《あたし》が『明日お出でか』ト聞いたらネ、『これさえ貰えばもう用は無い、また無くなってから行く』ッて……」
「慈母さん、書生の運動会なら会費と云ッても高が十銭か二十銭位なもんですよ」
「エ、十銭か二十銭……オヤそれじゃ三十銭足駄を履かれたんだよ……」
ト云ッて昇の顔を凝視《みつ》めた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ」
「アハハハ」
第八回 団子坂の観菊 下
お勢|母子《ぼし》の者の出向いた後《のち》、文三は漸《ようや》く些《すこ》し沈着《おちつい》て、徒然《つくねん》と机の辺《ほとり》に蹲踞《うずくま》ッたまま腕を拱《く》み顋《あご》を襟《えり》に埋めて懊悩《おうのう》たる物思いに沈んだ。
どうも気に懸る、お勢の事が気に懸る。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気に懸ってならぬ。
凡《およ》そ相愛《あいあい》する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、又仕ようとて出来るものでもない。故《ゆえ》に一方《かたかた》の心が歓ぶ時には他方《かたかた》の心も共に歓び、一方《かたかた》の心が悲しむ時には他方《かたかた》の心も共に悲しみ、一方《かたかた》の心が楽しむ時には他方《かたかた》の心も共に楽み、一方《かたかた》の心が苦しむ時には他方《かたかた》の心も共に苦しみ、嬉笑《きしょう》にも相感じ怒罵《どば》にも相感じ、愉快適悦、不平|煩悶《はんもん》にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚起《よびおこ》し決して齟齬《そご》し扞格《かんかく》する者で無い、と今日が日まで文三は思っていたに、今文三の痛痒《つうよう》をお勢の感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気が呑込《のみこ》めぬ。
若《も》し相愛《あいあい》していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉遣いを改め起居動作《たちいふるまい》を変え、蓮葉《はすは》を罷《や》めて優に艶《やさ》しく女性《にょしょう》らしく成る筈《はず》もなし、又今年の夏|一夕《いっせき》の情話に、我から隔《へだて》の関を取除《とりの》け、乙な眼遣《めづかい》をし麁匆《ぞんざい》な言葉を遣って、折節に物思いをする理由《いわれ》もない。
若し相愛《あいあい》していなければ、婚姻《こんいん》の相談が有った時、お勢が戯談《じょうだん》に托辞《かこつ》けてそれとなく文三の肚《はら》を探る筈もなし、また叔母と悶着《もんちゃく》をした時、他人|同前《どうぜん》の文三を庇護《かば》って真実の母親と抗論する理由《いわれ》もない。
「イヤ妄想《ぼうそう》じゃ無い、おれを思っているに違いない……ガ……そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割が、従兄弟《いとこ》なり親友なり未来の……夫ともなる文三の鬱々《うつうつ》として楽まぬのを余所《よそ》に見て、行《ゆ》かぬと云ッても勧めもせず、平気で澄まして不知顔《しらぬかお》でいる而已《のみ》か、文三と意気《そり》が合わねばこそ自家《じぶん》も常居《つね》から嫌《きら》いだと云ッている昇如き者に伴われて、物観遊山《ものみゆさん》に出懸けて行く……
「解らないナ、どうしても解らん」
解らぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々《さまざま》にしてこの気懸りなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物が有ってその中《うち》に籠《こも》っているように思われる、イヤ籠っているに相違ない。が、何だか地体は更に解らぬ。依てさらに又勇気を振起して唯この一点に注意を集め、傍目《わきめ》も触らさず一心不乱に茲処《ここ》を先途《せんど》と解剖して見るが、歌人の所謂《いわゆる》箒木《ははきぎ》で有りとは見えて、どうも解らぬ。文三は徐々《そろそろ》ジレ出した。スルト悪戯《いたずら》な妄想奴《ぼうそうめ》が野次馬に飛出して来て、アアでは無いかこうでは無いかと、真赤な贋物《にせもの》、宛事《あてこと》も無い邪推を掴《つか》ませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、又必ずしも居ないでもなく、ウカウカと文三が掴《つか》ませられるままに掴んで、あえだり揉《もん》だり円めたり、また引延ばしたりして骨を折て事実《もの》にしてしまい、今目前にその事が出来《しゅったい》したように足掻《あが》きつ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きつ四苦八苦の苦楚《くるしみ》を甞《な》め、然《しか》る後フト正眼《せいがん》を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取越苦労だ。腹立紛れに贋物を取ッて骨灰微塵《こっぱいみじん》と打砕き、ホッと一息|吐《つ》き敢えずまた穿鑿《せんさく》に取懸り、また贋物を掴ませられてまた事実《もの》にしてまた打砕き、打砕いてはまた掴み、掴んではまた打砕くと、何時《いつ》まで経《た》っても果《はて》しも附かず、始終同じ所に而已《のみ》止ッていて、前へも進まず後へも退《しりぞ》かぬ。そして退いて能《よ》く視《み》れば、尚お何物だか冷淡の中《うち》に在ッて朦朧《もうろう》として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭《つ》き勇気も沮《はば》んだ。乃《すなわ》ち眼を閉じ頭顱《かしら》を抱えて其処《そこ》へ横に倒れたまま、五官を馬鹿にし七情の守《まもり》を解いて、是非も曲直も栄辱も窮達も叔母もお勢も我の吾《われ》たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悶を解脱《のが》れようと力《つと》め、良《やや》暫《しば》らくの間というものは身動もせず息気《いき》をも吐かず死人の如くに成っていたが、倏忽《たちまち》勃然《むっく》と跳起《はねお》きて、
「もしや本田に……」
ト言い懸けて敢て言い詰めず、宛然《さながら》何か捜索《さがし》でもするように愕然《がくぜん》として四辺《あたり》を環視《みまわ》した。
それにしてもこの疑念は何処《どこ》から生じたもので有ろう。天より降ッたか地より沸いたか、抑《そもそ》もまた文三の僻《ひが》みから出た蜃楼海市《しんろうかいし》か、忽然《こつぜん》として生じて思わずして来《きた》り、恍々惚々《こうこうこつこつ》としてその来所《らいしょ》を知るに由《よ》しなしといえど、何にもせよ、あれ程までに足掻《あが》きつ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》きつして穿鑿しても解らなかった所謂《いわゆる》冷淡中の一|物《ぶつ》を、今訳もなく造作もなくツイチョット突留めたらしい心持がして、文三覚えず身の毛が弥立《よだ》ッた。
とは云うものの心持は未《いま》だ事実でない。事実から出た心持で無ければウカとは信を措《お》き難い。依て今までのお勢の挙動《そぶり》を憶出《おもいいだ》して熟思審察して見るに、さらにそんな気色《けしき》は見えない。成程お勢はまだ若い、血気も未《いま》だ定らない、志操も或《あるい》は根強く有るまい。が、栴檀《せんだん》は二葉《ふたば》から馨《こう》ばしく、蛇《じゃ》は一寸にして人を呑む気が有る。文三の眼より見る時はお勢は所謂|女豪《じょごう》の萌芽《めばえ》だ。見識も高尚《こうしょう》で気韻も高く、洒々落々《しゃしゃらくらく》として愛すべく尊《たっと》ぶべき少女であって見れば、仮令《よし》道徳を飾物にする偽君子《ぎくんし》、磊落《らいらく》を粧《よそお》う似而非《えせ》豪傑には、或は欺《あざむ》かれもしよう迷いもしようが、昇如きあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷う筈はない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑《けいべつ》している。相愛は相敬の隣に棲《す》む、軽蔑しつつ迷うというは、我輩人間の能く了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら……ガ……」
トまた引懸りが有る、まだ決徹《さっぱり》しない。文三|周
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