ニ云て取留めた相手は無いが腹が立つ。何か火急の要事が有るようでまた無いようで、無いようでまた有るようで、立てもいられず坐《すわっ》てもいられず、どうしてもこうしても落着かれない。
 落着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函《ほんばこ》の書物を手当放題に取出して読みかけて見たが、いッかな争《いか》な紛れる事でない。小むずかしい面相《かおつき》をして書物と疾視競《にらめくら》したところはまず宜《よかっ》たが、開巻第一章の一行目を反覆読過して見ても、更にその意義を解《げ》し得ない。その癖|下坐舗《したざしき》でのお勢の笑声《わらいごえ》は意地悪くも善く聞えて、一回《ひとたび》聞けば則《すなわ》ち耳の洞《ほら》の主人《あるじ》と成ッて、暫《しば》らくは立去らぬ。舌鼓《したつづみ》を打ちながら文三が腹立しそうに書物を擲却《ほうりだ》して、腹立しそうに机に靠着《もたれかか》ッて、腹立しそうに頬杖《ほおづえ》を杖《つ》き、腹立しそうに何処ともなく凝視《みつ》めて……フトまた起直ッて、蘇生《よみがえ》ッたような顔色《かおつき》をして、
「モシ罷めになッたら……」
 ト取外《とりはず》して言いかけて倏忽《たちまち》ハッと心附き、周章《あわて》て口を鉗《つぐ》んで、吃驚《びっくり》して、狼狽《ろうばい》して、遂《つい》に憤然《やっき》となッて、「畜生」と言いざま拳《こぶし》を振挙げて我と我を威《おど》して見たが、悪戯《いたずら》な虫|奴《め》は心の底でまだ……やはり……
 シカシ生憎《あいにく》故障も無かッたと見えて昇は一時頃に参ッた。今日は故意《わざ》と日本服で、茶の糸織の一ツ小袖《こそで》に黒七子《くろななこ》の羽織、帯も何か乙なもので、相変らず立《りゅう》とした服飾《こしらえ》。梯子段《はしごだん》を踏轟《ふみとどろ》かして上ッて来て、挨拶《あいさつ》をもせずに突如《いきなり》まず大胡坐《おおあぐら》。我鼻を視るのかと怪しまれる程の下眼を遣ッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左《どざ》的宜しくという顔色《がんしょく》だぜ」
「些《すこ》し頭痛がするから」
「そうか、尼御台《あまみだい》に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ」
 チョイと云う事からしてまず気《き》に障わる。文三も怫然《むっ》とはしたが、其処《そこ》は内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしても往《い》かんか」
「まずよそう」
「剛情だな……ゴジョウだからお出《いで》なさいよじゃ無いか、アハハハ。ト独りで笑うほかまず仕様が無い、何を云ッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ」
 戯言《ぎげん》とも附かず罵詈《ばり》とも附かぬ曖昧《あいまい》なお饒舌《しゃべり》に暫らく時刻を移していると、忽《たちま》ち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん」
「何です」
「アノ車が参りましたから、よろしくば」
「出懸けましょう」
「それではお早く」
「チョイとお勢さん」
「ハイ」
「貴嬢《あなた》と合乗《あいのり》なら行ても宜《いい》というのがお一方《ひとかた》出来たが承知ですかネ」
 返答は無く、唯《ただ》バタバタと駆出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃出すなぞは未《ま》だしおらしいネ」
 ト言ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起上《たちあが》ッて二階を降りて往った。跡を目送《みおく》りながら文三が、さもさも苦々しそうに口の中《うち》で、
「馬鹿|奴《め》……」
 ト言ったその声が未だ中有《ちゅうう》に徘徊《さまよ》ッている内に、フト今年の春|向島《むこうじま》へ観桜《さくらみ》に往った時のお勢の姿を憶出し、どういう心計《つもり》か蹶然《むっく》と起上り、キョロキョロと四辺《あたり》を環視《みまわ》して火入《ひいれ》に眼を注《つ》けたが、おもい直おして旧《もと》の座になおり、また苦々しそうに、
「馬鹿奴」
 これは自《みずか》ら叱責《しか》ったので。
 午後はチト風が出たがますます上天気、殊《こと》には日曜と云うので団子坂近傍は花観る人が道去り敢《あ》えぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返《いちょうがえ》しも出た丸髷《まるまげ》も出た、蝶々《ちょうちょう》髷も出たおケシも出た。○○《なになに》会幹事、実は古猫の怪という、鍋島《なべしま》騒動を生《しょう》で見るような「マダム」某《なにがし》も出た。芥子《けし》の実ほどの眇少《かわいら》しい智慧《ちえ》を両足に打込んで、飛だり跳《はね》たりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢《さんどん》も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻《いっぷすさい》論の未だ行われる証拠に上りそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪《ざんぎり》も出た、五分刈も出たチョン髷も出た。天帝の愛子《あいし》、運命の寵臣《ちょうしん》、人の中《うち》の人、男の中《なか》の男と世の人の尊重の的、健羨《けんせん》の府となる昔|所謂《いわゆる》お役人様、今の所謂官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名告《なの》るべき方々も出た。商賈《しょうこ》も出た負販《ふはん》の徒も出た。人の横面《そっぽう》を打曲《はりま》げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱《はずかしめ》に逢《あ》いそうな毛臑《けずね》暴出《さらけだ》しの政治家も出た。猫も出た杓子《しゃくし》も出た。人様々の顔の相好《すまい》、おもいおもいの結髪風姿《かみかたち》、聞覩《ぶんと》に聚《あつ》まる衣香襟影《いこうきんえい》は紛然雑然として千態|万状《ばんじょう》、ナッカなか以て一々枚挙するに遑《いとま》あらずで、それにこの辺は道幅《みちはば》が狭隘《せばい》ので尚お一段と雑沓《ざっとう》する。そのまた中を合乗で乗切る心無し奴《め》も有難《ありがた》の君が代に、その日|活計《ぐらし》の土地の者が摺附木《マッチ》の函《はこ》を張りながら、往来の花観る人をのみ眺《なが》めて遂に真《まこと》の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
 さてまた団子坂の景況は、例の招牌《かんばん》から釣込む植木屋は家々の招きの旗幟《はた》を翩翻《へんぽん》と金風《あきかぜ》に飄《ひるがえ》し、木戸々々で客を呼ぶ声はかれこれからみ合て乱合《みだれあっ》て、入我我入《にゅうががにゅう》でメッチャラコ、唯|逆上《のぼせあが》ッた木戸番の口だらけにした面《かお》が見える而已《のみ》で、何時《いつ》見ても変ッた事もなし。中へ這入《はい》ッて見てもやはりその通りで。
 一体全体菊というものは、一本《ひともと》の淋《さび》しきにもあれ千本八千本《ちもとやちもと》の賑《にぎわ》しきにもあれ、自然のままに生茂《おいしげ》ッてこそ見所の有ろう者を、それをこの辺の菊のようにこう無残々々《むざむざ》と作られては、興も明日《あす》も覚めるてや。百草の花のとじめと律義《りちぎ》にも衆芳に後《おく》れて折角咲いた黄菊白菊を、何でも御座れに寄集めて小児騙欺《こどもだまし》の木偶《でく》の衣裳《べべ》、洗張りに糊《のり》が過ぎてか何処へ触ッてもゴソゴソとしてギゴチ無さそうな風姿《とりなり》も、小言いッて観る者は千人に一人か二人、十人が十人まず花より団子と思詰めた顔色《がんしょく》、去りとはまた苦々しい。ト何処かの隠居が、菊細工を観ながら愚痴を滴《こぼ》したと思食《おぼしめ》せ。(看官)何だ、つまらない。
 閑話|不題《ふうだい》。
 轟然《ごうぜん》と飛ぶが如くに駆来《かけきた》ッた二台の腕車《くるま》がピッタリと停止《とま》る。車を下りる男女三人の者はお馴染《なじみ》の昇とお勢|母子《おやこ》の者で。
 昇の服装《みなり》は前文にある通り。
 お政は鼠微塵《ねずみみじん》の糸織の一ツ小袖に黒の唐繻子《とうじゅす》の丸帯、襦袢《じゅばん》の半襟《はんえり》も黒|縮緬《ちりめん》に金糸でパラリと縫の入《い》ッた奴か何かで、まず気の利いた服飾《こしらえ》。
 お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入繻珍《あいねずみきんいりしゅちん》の丸帯、勿論《もちろん》下にはお定《さだま》りの緋縮緬《ひぢりめん》の等身《ついたけ》襦袢、此奴《こいつ》も金糸で縫の入《い》ッた水浅黄《みずあさぎ》縮緬の半襟をかけた奴で、帯上はアレハ時色《ときいろ》縮緬、統括《ひっくる》めて云えばまず上品なこしらえ。
 シカシ人足《ひとあし》の留まるは衣裳附《いしょうづけ》よりは寧《むし》ろその態度で、髪も例《いつも》の束髪ながら何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇《ばら》の花挿頭《はなかんざし》を挿《さ》し、本化粧は自然に背《そむ》くとか云ッて薄化粧の清楚《せいそ》な作り、風格|※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]神《ぼうしん》共に優美で。
「色だ、ナニ夫婦サ」と法界悋気《ほうかいりんき》の岡焼連が目引袖引《めひきそでひき》取々に評判するを漏聞く毎《ごと》に、昇は得々として機嫌《きげん》顔、これ見よがしに母子《おやこ》の者を其処茲処《そこここ》と植木屋を引廻わしながらも片時と黙してはいない。人の傍聞《かたえぎき》するにも関《かま》わず例の無駄《むだ》口をのべつに並べ立てた。
 お勢も今日は取分け気の晴れた面相《かおつき》で、宛然《さながら》籠《かご》を出た小鳥の如くに、言葉は勿論|歩風《あるきぶり》身体《からだ》のこなしにまで何処ともなく活々《いきいき》としたところが有ッて冴《さえ》が見える。昇の無駄を聞ては可笑《おか》しがッて絶えず笑うが、それもそうで、強《あなが》ち昇の言事《いうこと》が可笑しいからではなく、黙ッていても自然《おのず》と可笑しいからそれで笑うようで。
 お政は菊細工には甚《はなは》だ冷淡なもので、唯「綺麗だことネー」ト云ッてツラリと見亘《みわた》すのみ。さして眼を注《と》める様子もないが、その代りお勢と同年配頃の娘に逢えば、叮嚀《ていねい》にその顔貌風姿《かおかたち》を研窮《けんきゅう》する。まず最初に容貌《かおだち》を視て、次に衣服《なり》を視て、帯を視て爪端《つまさき》を視て、行過ぎてからズーと後姿《うしろつき》を一|瞥《べつ》して、また帯を視て髪を視て、その跡でチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖も有れば有るもので。
 昇等三人の者は最後に坂下の植木屋へ立寄ッて、次第々々に見物して、とある小舎《こや》の前に立止ッた。其処に飾付《かざりつけ》て在ッた木像《にんぎょう》の顔が文三の欠伸《あくび》をした面相《かおつき》に酷《よ》く肖《に》ているとか昇の云ッたのが可笑しいといって、お勢が嬌面《かお》に袖を加《あ》てて、勾欄《てすり》におッ被《かぶ》さッて笑い出したので、傍《かたわら》に鵠立《たたずん》でいた書生|体《てい》の男が、俄《にわか》に此方《こちら》を振向いて愕然《がくぜん》として眼鏡越しにお勢を凝視《みつ》めた。「みッともないよ」ト母親ですら小言を言ッた位で。
 漸くの事で笑いを留《とど》めて、お勢がまだ莞爾々々《にこにこ》と微笑のこびり付ている貌《かお》を擡《もた》げて傍《そば》を視ると、昇は居ない。「オヤ」ト云ッてキョロキョロと四辺《あたり》を環視《みま》わして、お勢は忽ち真面目《まじめ》な貌をした。
 と見れば後《あと》の小舎《こや》の前で、昇が磬折《けいせつ》という風に腰を屈《かが》めて、其処に鵠立《たたずん》でいた洋装紳士の背《せなか》に向ッて荐《しき》りに礼拝していた。されども紳士は一向心附かぬ容子《ようす》で、尚お彼方《あちら》を向いて鵠立《たたずん》でいたが、再三再四|虚辞儀《からじぎ》をさしてから、漸くにムシャクシャと頬鬚《ほおひげ》の生弘《はえひろが》ッた気むずかしい貌を此方《こちら》へ振向けて、昇の貌を眺め、莞然《にっこり》ともせず帽子も被ッたままで唯|鷹揚《おうよう》に点頭《てんとう》すると、昇は忽ち平身低頭、何事をか喃々《くどくど》と言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。
 紳士の随伴《つれ》と見える両人《ふたり》の婦人
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