スけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神《こうじん》様が附てるからとても叶《かな》う事《こっ》ちゃア無いとおもって、虫を殺ろして噤黙《だまっ》てましたがネ……」
「アラあんな虚言《うそ》ばッかり言ッて」
「虚言じゃないワ真実《ほんと》だワ……マなんぼなんだッて呆《あき》れ返るじゃ有りませんか。ネー貴君、何処の国にか他人の肩を持ッてサ、シシババの世話をしてくれた現在の親に喰ッて懸るという者《もん》が有るもんですかネ。ネー本田さん、そうじゃア有りませんか。ギャット産れてからこれまでにするにア仇《あだ》や疎《おろそ》かな事《こっ》じゃア有りません。子を持てば七十五|度《たび》泣くというけれども、この娘《こ》の事《こっ》てはこれまで何百度泣たか知れやアしない。そんなにして養育《そだて》て貰ッても露程も有難いと思ッてないそうで、この頃じゃ一口いう二口目にゃ速《す》ぐ悪たれ口だ。マなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ」
「人が黙ッていれば好気《いいき》になってあんな事を言ッて、余《あんま》りだから宜《いい》ワ。私は三歳の小児じゃないから親の恩位は知ていますワ。知ていますけれども条理……」
「アアモウ解ッた解ッた、何にも宣《のたも》うナ。よろしいヨ、解ッたヨ」
ト昇は憤然《やっき》と成ッて饒舌り懸けたお勢の火の手を手頸《てくび》で煽《あお》り消して、さてお政に向い、
「しかし叔母さん、此奴《こいつ》は一番|失策《しくじ》ッたネ、平生の粋《すい》にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧《ごろう》じろ、内海といじり合いが有ッて見ればネ、ソレ……という訳が有るからお勢さんも黙ッては見ていられないやアネ、アハハハハ」
ト相手のない高笑い。お勢は額《ひたえ》で昇を睨《にら》めたまま何《なに》とも言わぬ、お政も苦笑いをした而已《のみ》でこれも黙然《だんまり》、些《ち》と席がしらけた趣き。
「それは戯談《じょうだん》だがネ、全体叔母さん余り慾が深過るヨ、お勢さんの様なこんな上出来な娘を持ちながら……」
「なにが上出来なもんですか……」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘子《むすめっこ》を御覧なさい。お勢さん位の年|恰好《かっこう》でこんなに縹致《きりょう》がよくッて見ると、学問や何かは其方退《そっちの》けで是非色狂いとか何とか碌《ろく》な真似はしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがは叔母さんの仕込みだけ有ッて、縹致は好くッても品行は方正で、曾て浮気らしい真似をした事はなく、唯一心に勉強してお出でなさるから漢学は勿論出来るシ、英学も……今何を稽古《けいこ》してお出でなさる」
「『ナショナル』の『フォース』に列国史《スイントン》に……」
「フウ、『ナショナル』の『フォース』、『ナショナル』の『フォース』と言えば、なかなか難《むつか》しい書物だ、男子でも読《よめ》ない者は幾程《いくら》も有る。それを芳紀《とし》も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古してお出でなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこう言やア失敬のようだけれども、鳶《とび》が鷹《たか》とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレ御覧、色狂いして親の顔に泥《どろ》を塗《ぬ》ッても仕様がないところを、お勢さんが出来が宜いばっかりに叔母さんまで人に羨《うらや》まれる。ネ、何も足腰|按《さす》るばかりが孝行じゃアない、親を人に善く言わせるのも孝行サ。だから全体なら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬところを、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは慾サ、慾が深過ぎるのサ」
「ナニ些《ち》とばかりなら人様《しとさま》に悪く言われても宜《いい》からもう些《すこ》し優しくしてくれると宜《いいん》だけれども、邪慳《じゃけん》で親を親臭いとも思ッていないから悪《にく》くッて成りゃアしません」
ト眼を細くして娘の方を顧視《みかえ》る。こういう眺《にら》め方も有るものと見える。
「喜び叙《ついで》にもう一ツ喜んで下さい。我輩今日一等進みました」
「エ」
トお政は此方《こなた》を振向き、吃驚《びっくり》した様子で暫《しば》らく昇の顔を目守《みつ》めて、
「御結構が有ッたの……ヘエエー……それはマア何してもお芽出度《めでとう》御座いました」
ト鄭重《ていちょう》に一礼して、さて改めて頭《こうべ》を振揚げ、
「ヘー御結構が有ッたの……」
お勢もまた昇が「御結構が有ッた」と聞くと等しく吃驚した顔色《かおつき》をして些《すこ》し顔を※[#「赤+報のつくり」、74−9]《あか》らめた。咄々《とつとつ》怪事もあるもので。
「一等お上《あがん》なすッたと言うと、月給は」
「僅《たった》五円違いサ」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうッ今までが三十円だッたから五円殖えて……」
「何ですネー母親《おっか》さん、他人の収入を……」
「マアサ五円殖えて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてサ。貴君《あなた》どうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事《こっ》ちゃア有りませんヨ……三十五円……どうしても働らき者《もん》は違ッたもんだネー。だからこの娘《こ》とも常不断《じょうふだん》そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何《なん》かとは違ッてまだ若くッてお出《い》でなさるけれども、利口で気働らきが有ッて、如才が無くッて……」
「談話《はなし》も艶消《つやけ》しにして貰《もらい》たいネ」
「艶じゃア無い、真個《ほんと》にサ。如才が無くッてお世辞がよくッて男振も好けれども、唯|物喰《ものぐ》いの悪《わり》いのが可惜《あったら》瑜《たま》に疵《きず》だッて、オホホホホ」
「アハハハハ、貧乏人の質《しち》で上げ下げが怖ろしい」
「それはそうと、孰《いず》れ御結構振舞いが有りましょうネ。新富《しんとみ》かネ、但《ただ》しは市村《いちむら》かネ」
「何処《いずれ》へなりとも、但し負《おん》ぶで」
「オヤそれは難有《ありがた》くも何ともないこと」
トまた口を揃《そろ》えて高笑い。
「それは戯談《じょうだん》だがネ、芝居はマア芝居として、どうです、明後日《あさって》団子坂《だんござか》へ菊見という奴は」
「菊見、さようさネ、菊見にも依りけりサ。犬川《いぬかわ》じゃア、マア願い下げだネ」
「其処にはまた異《おつ》な寸法も有ろうサ」
「笹《ささ》の雪じゃアないかネ」
「まさか」
「真個《ほんと》に往きましょうか」
「お出でなさいお出でなさい」
「お勢、お前もお出ででないか」
「菊見に」
「アア」
お勢は生得の出遊《である》き好き、下地は好きなり御意《ぎょい》はよし、菊見の催《もよおし》頗《すこぶ》る妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかりを経て昇が立帰ッた跡で、お政は独言《ひとりごと》のように、
「真個《ほんと》に本田さんは感心なもんだナ、未《ま》だ年齢《とし》も若いのに三十五円月給取るように成んなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗《ぼんくら》の意久地なしだッちゃアない、二十三にも成ッて親を養《すご》すどこか自分の居所《いど》立所《たちど》にさえ迷惑《まごつい》てるんだ。なんぼ何だッて愛想《あいそ》が尽きらア」
「だけれども本田さんは学問は出来ないようだワ」
「フム学問々々とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所《いど》立所《たちど》に迷惑《まごつ》くようじゃア、些《ちっ》とばかし書物《ほん》が読めたッてねっから難有味《ありがたみ》がない」
「それは不運だから仕様がないワ」
トいう娘の顔をお政は熟々《しけじけ》目守《みつ》めて、
「お勢、真個《ほんと》にお前は文三と何にも約束した覚えはないかえ。エ、有るなら有ると言ておしまい、隠立《かくしだて》をすると却《かえっ》てお前の為にならないヨ」
「またあんな事を言ッて……昨日《きのう》あれ程そんな覚えは無いと言ッたのが母親《おっか》さんには未だ解らないの、エ、まだ解らないの」
「チョッ、また始まッた。覚えが無いなら無いで好やアネ、何にもそんなに熱くならなくッたッて」
「だッて人をお疑《うたぐ》りだものヲ」
暫らく談話《はなし》が断絶《とぎ》れる、母親も娘も何か思案顔。
「母親《おっか》さん、明後日《あさって》は何を衣《き》て行こうネ」
「何なりとも」
「エート、下着は何時《いつ》ものアレにしてト、それから上着は何衣《どれ》にしようかしら、やッぱり何時もの黄八丈《きはちじょう》にして置こうかしら……」
「もう一ツのお召|縮緬《ちりめん》の方にお為《し》ヨ、彼方《あのほう》がお前にゃア似合うヨ」
「デモあれは品が悪いものヲ」
「品《しん》が悪《わり》いてッたッて」
「アアこんな時にア洋服が有ると好のだけれどもナ……」
「働き者《もん》を亭主《ていし》に持ッて、洋服なとなんなと拵《こせ》えて貰うのサ」
トいう母親の顔をお勢はジット目守《みつ》めて不審顔。
[#改丁]
第二編
第七回 団子坂《だんござか》の観菊《きくみ》 上
日曜日は近頃に無い天下晴れ、風も穏かで塵《ちり》も起《た》たず、暦を繰《くっ》て見れば、旧暦で菊月初旬《きくづきはじめ》という十一月二日の事ゆえ、物観遊山《ものみゆさん》には持《もっ》て来いと云う日和《ひより》。
園田|一家《いっけ》の者は朝から観菊行《きくみゆき》の支度《したく》とりどり。晴衣《はれぎ》の亘長《ゆきたけ》を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪《かんしゃく》と成て、廻りの髪結の来ようの遅いのがお鍋の落度となり、究竟《はて》は万古の茶瓶《きゅうす》が生れも付かぬ欠口《いぐち》になるやら、架棚《たな》の擂鉢《すりばち》が独手《ひとりで》に駈出《かけだ》すやら、ヤッサモッサ捏返《こねかえ》している所へ生憎《あやにく》な来客、しかも名打《なうて》の長尻《ながっちり》で、アノ只今《ただいま》から団子坂へ参ろうと存じて、という言葉にまで力瘤《ちからこぶ》を入れて見ても、まや薬ほども利《き》かず、平気で済まして便々とお神輿《みこし》を据《す》えていられる。そのじれッたさ、もどかしさ。それでも宜《よ》くしたもので、案じるより産むが易く、客もその内に帰れば髪結も来る、ソコデ、ソレ支度も調い、十一時頃には家内も漸《ようや》く静まッて、折節には高笑がするようになッた。
文三は拓落失路《たくらくしつろ》の人、仲々|以《もっ》て観菊などという空《そら》は無い。それに昇は花で言えば今を春辺《はるべ》と咲誇る桜の身、此方《こっち》は日蔭《ひかげ》の枯尾花、到頭《どうせ》楯突《たてつ》く事が出来ぬ位なら打たせられに行くでも無いと、境界《きょうがい》に随《つ》れて僻《ひが》みを起し、一昨日《おとつい》昇に誘引《さそわれ》た時既にキッパリ辞《ことわ》ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家《となり》の疝気《せんき》で関繋《かけかまい》のない噺《はなし》、ズット澄していられそうなもののさて居られぬ。嬉《うれ》しそうに人のそわつくを見るに付け聞くに付け、またしても昨日《きのう》の我が憶出《おもいいだ》されて、五月雨《さみだれ》頃の空と湿める、嘆息もする、面白くも無い。
ヤ面白からぬ。文三には昨日お勢が「貴君《あなた》もお出《いで》なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰《もら》いたかッた。それでも尚《な》お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷《よ》しましょう」とか何とか言て貰いたかッた……
「シカシこりゃア嫉妬《しっと》じゃアない……」
と不図何か憶出《おもいだ》して我と我に分疏《いいわけ》を言て見たが、まだ何処《どこ》かくすぐられるようで……不安心で。
行くも厭《いや》なり留《とど》まるも厭なりで、気がムシャクシャとして肝癪が起る。誰
前へ
次へ
全30ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング