く今の境界を渡り課《おお》せれば、この一時《ひととき》にさまざまの経験を得て、己の人と為《な》りをも知り、所謂《いわゆる》放心を求め得て始て心でこの世を渡るようになろうが、若し躓《つまず》けばもうそれまで、倒《たおれ》たままで、再び起上る事も出来まい。物のうちの人となるもこの一時《ひととき》、人の中《うち》の物となるもまたこの一時※[#白ゴマ点、212−5]今が浮沈の潮界《しおざかい》、尤も大切な時で有るに、お勢はこの危い境を放心《うっかり》して渡ッていて何時《いつ》眼が覚めようとも見えん。
 このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠《ねぶ》った本心を覚まさなければならん、が、しかし誰がお勢のためにこの事に当ろう?
 見渡したところ、孫兵衛は留守、仮令《たとい》居たとて役にも立たず、お政は、あの如く、娘を愛する心は有りても、その道を知らんから、娘の道心を縊殺《しめころ》そうとしていながら、しかも得意顔《したりがお》でいるほどゆえ、固《もと》よりこれは妨《さまたげ》になるばかり、ただ文三のみは、愚昧《ぐまい》ながらも、まだお勢よりは少しは智識も有り、経験も有れば、若し
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