旧《ききふる》した諺《ことわざ》も今は耳新しく身に染《し》みて聞かれる。から、何事につけても、己《おのれ》一人《いちにん》をのみ責めて敢《あえ》て叨《みだ》りにお勢を尤《とが》めなかッた。が、如何に贔負眼《ひいきめ》にみても、文三の既に得た所謂《いわゆる》識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁《けいそう》と心附かねばこそ、身を軽躁に持崩しながら、それを憂《う》しとも思わぬ様子※[#白ゴマ点、190−1]|醜穢《しゅうかい》と認めねばこそ、身を不潔な境に処《お》きながら、それを何とも思わぬ顔色《かおつき》。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢覚めて燈《ともしび》冷《ひやや》かなる時、想《おも》うてこの事に到れば、毎《つね》に悵然《ちょうぜん》として太息《たいそく》せられる。
 して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみが甞《な》め足りぬそうな!

     第十七回

 お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、凡《およ》そ二時間ばかりも、何か諄々《くどくど》と教誨《いいきか》せていたが、爾後《それから》は、どうしたものか、急に母子《おやこ》の折合が好《よく》なッて来た。取分け
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