間違えれば出し物も後《おく》れる。酒を命じ肉を命じて、文三が待てど暮らせど持て来ない、催促をしても持て来ない、また催促をしてもまた持て来ない、偶々《たまたま》持て来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三も遂《つい》には肝癪《かんしゃく》を起して、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをして漸《ようや》くの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度|難有《ありがとう》御座い」の声を聞流して戸外《おもて》へ出た時には、厄落《やくおと》しでもしたような心地がした。
 両側の夜見世《よみせ》を窺《のぞ》きながら、文三がブラブラと神保町《じんぼうちょう》の通りを通行した頃には、胸のモヤクヤも漸く絶え絶えに成ッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱《はずかし》められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気に障ッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、唯《ただ》※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]顔《かお》に当る夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持はしなかッた。
 宿所へ来た。何心なく文三が格子戸《こうしど》を開けて裏《うち》へ這入ると、奥坐舗《おくざしき》の方でワッワッと
前へ 次へ
全294ページ中174ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
二葉亭 四迷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング