を御|誹謗《ひぼう》遊ばすが、御自分は評判の気むずかし屋で、御意《ぎょい》に叶《かな》わぬとなると瑣細《ささい》の事にまで眼を剥出《むきだ》して御立腹遊ばす、言わば自由主義の圧制家という御方だから、哀れや属官の人々は御機嫌《ごきげん》の取様に迷《まごつ》いてウロウロする中に、独り昇は迷《まごつ》かぬ。まず課長殿の身態《みぶり》声音《こわいろ》はおろか、咳払《せきばら》いの様子から嚔《くさめ》の仕方まで真似《まね》たものだ。ヤそのまた真似の巧《たくみ》な事というものは、あたかもその人が其処《そこ》に居て云為《うんい》するが如くでそっくりそのまま、唯相違と言ッては、課長殿は誰の前でもアハハハとお笑い遊ばすが、昇は人に依ッてエヘヘ笑いをする而已《のみ》。また課長殿に物など言懸けられた時は、まず忙わしく席を離れ、仔細《しさい》らしく小首を傾けて謹《つつしん》で承り、承り終ッてさて莞爾《にっこり》微笑して恭《うやうや》しく御返答申上る。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎《な》れるといっても涜《けが》すには至らず、諸事万事御意の随意々々《まにまに》曾て抵抗した事なく、しかのみならず……此処が肝賢|要《かなめ》……他の課長の遺行を数《かぞえ》て暗に盛徳を称揚する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意遊ばして御贔負《ごひいき》に遊ばすが、同僚の者は善く言わぬ。昇の考では皆|法界悋気《ほうかいりんき》で善く言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務に懸けては頗る活溌《かっぱつ》で、他人の一日分|沢山《たっぷり》の事を半日で済ましても平気孫左衛門、難渋そうな顔色《かおつき》もせぬが、大方は見せかけの勉強|態《ぶり》、小使給事などを叱散《しかりち》らして済まして置く。退省《ひけ》て下宿へ帰る、衣服を着更《きかえ》る、直ぐ何処《いずれ》へか遊びに出懸けて、落着て在宿していた事は稀《まれ》だという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達《た》す。先頃もお手飼に狆《ちん》が欲しいと夫人の御意、聞《きく》よりも早飲込み、日ならずして何処で貰《もら》ッて来た事か、狆の子一|疋《ぴき》を携えて御覧に供える。件《くだん》の狆を御覧じて課長殿が「此奴《こいつ》妙な貌《かお》をしているじゃアない
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