を言いながら再び将《まさ》に取旁付《とりかたづけ》に懸らんとすると、二階の上り口で「お飯《まんま》で御座いますヨ」ト下女の呼ぶ声がする。故《ことさ》らに二三度呼ばして返事にも勿躰《もったい》をつけ、しぶしぶ二階を降りて、気むずかしい苦り切ッた怖《おそ》ろしい顔色をして奥坐舗《おくざしき》の障子を開けると……お勢がいるお勢が……今まで残念口惜しいと而已《のみ》一途に思詰めていた事ゆえ、お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然《にっこり》笑われて見ると……淡雪《あわゆき》の日の眼に逢《あ》ッて解けるが如く、胸の鬱結《むすぼれ》も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底《むなそこ》に沈んでいた嬉《うれ》しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。さて食事も済む。二階へ立戻ッて文三が再び取旁付に懸ろうとして見たが、何となく拍子抜《ひょうしぬ》けがして以前のような気力が出ない。ソッと小声で「大丈夫」と言ッて見たがどうも気が引立《ひった》たぬ。依《よっ》て更に出直して「大丈夫」ト熱気《やっき》とした風《ふり》をして見て、歯を喰切《くいしば》ッて見て、「一旦思い定めた事を変《へん》がえるという事が有るものか……しらん、止めても止まらんぞ」
 と言ッて出て往《ゆ》けば、彼娘《あれ》を捨てなければならぬかと落胆したおもむき。今更未練が出てお勢を捨るなどという事は勿躰《もったい》なくて出来ず、と言ッて叔母に詫言《わびごと》を言うも無念、あれも厭《いや》なりこれも厭なりで思案の糸筋が乱《もつ》れ出し、肚の裏《うち》では上を下へとゴッタ返えすが、この時より既にどうやら人が止めずとも遂《つい》には我から止まりそうな心地がせられた。「マアともかくも」ト取旁付に懸りは懸ッたが、考えながらするので思の外暇取り、二時頃までかかって漸《ようや》く旁付終りホッと一息吐いていると、ミシリミシリと梯子段《はしごだん》を登る人の跫音《あしおと》がする。跫音を聞たばかりで姿を見ずとも文三にはそれと解ッた者か、先刻飲込んだニッコリを改めて顔へ現わして其方《そなた》を振向く。上ッて来た者はお勢で、文三の顔を見てこれもまたニッ
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