《ねめ》られたんだ。マアヨーク考えて御覧、本田さんのようなあんな方でさえ御免になってはならないと思《おもい》なさるもんだから、手間暇かいで課長さんに取り入ろうとなさるんじゃアないか、ましてお前さんなんざアそう言ッちゃアなんだけれども、本田さんから見りゃア……なんだから、尚更《なおさら》の事だ。それもネー、これがお前さん一人の事なら風見《かざみ》の烏《からす》みたように高くばッかり止まッて、食うや食わずにいようといまいとそりゃアもうどうなりと御勝手次第サ、けれどもお前さんには母親《おっか》さんというものが有るじゃアないかエ」
母親と聞いて文三の萎《しお》れ返るを見て、お政は好い責《せめ》道具を視付《みつ》けたという顔付、長羅宇《ながらう》の烟管《きせる》で席《たたみ》を叩《たた》くをキッカケに、
「イエサ母親さんがお可愛《かわい》そうじゃアないかエ、マア篤《とっく》り胸に手を宛《あ》てて考えて御覧。母親さんだッて父親《おとっ》さんには早くお別れなさるし、今じゃ便りにするなアお前さんばっかりだから、どんなにか心細いか知れない。なにもああしてお国で一人暮しの不自由な思いをしてお出でなさりたくもあるまいけれども、それもこれも皆《みんな》お前さんの立身するばッかりを楽《たのしみ》にして辛抱してお出でなさるんだヨ。そこを些《すこ》しでも汲分《くみわ》けてお出でなら、仮令《たと》えどんな辛いと思う事が有ッても厭《いや》だと思う事があッても我慢をしてサ、石に噛付《かじりつい》ても出世をしなくッちゃアならないと心懸なければならないとこだ。それをお前さんのように、ヤ人の機嫌を取るのは厭だの、ヤそんな鄙劣《しれつ》な事は出来ないのとそんな我儘|気随《きまま》を言ッて母親さんまで路頭に迷わしちゃア、今日《こんにち》冥利《みょうり》がわりいじゃないか。それゃアモウお前さんは自分の勝手で苦労するんだから関《かま》うまいけれども、それじゃア母親さんがお可愛そうじゃアないかい」
ト層《かさ》にかかッて極付《きめつけ》れど、文三は差俯向いたままで返答をしない。
「アアアア母親さんもあんなに今年の暮を楽しみにしてお出でなさるとこだから、今度《こんだ》御免にお成りだとお聞きなすったらさぞマア落胆《がっかり》なさる事だろうが、年を寄《と》ッて御苦労なさるのを見ると真個《ほんと》にお痛《いたわ》しいよう
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